第6章 彼女は必ず離婚する
薄井礼央は眉間に皺を寄せた。名取佳奈の姿を見た途端、あからさまに不機嫌になったように見える。
須藤唯が帰国したばかりの頃、佳奈は、礼央のそばに別の女が現れたのだと思っていた。だが、須藤唯の写真――そこに写る礼央の眼差しから零れ落ちるような優しさを見た瞬間、思い知ったのだ。
自分は、最初から最後まで、完敗だったのだと。
最初は礼央に不満をぶつけた。けれど礼央が気にしたのは、佳奈が陰で二人をつけ回していたことだけで、「心が汚い」「腹の底が読めない」と決めつけた。
今ここで礼央が自分を見たのも、きっとそうだ。――また尾行してきた、と。
佳奈は胸の奥でひやりと笑って、薄井礼央の存在など最初から視界に入っていないふりをした。店員に、試着を続けるよう目で促す。
だが先に動いたのは須藤唯だった。近づいてきた彼女は佳奈に気づき、ぱちりと目を見開く。
「佳奈さん……まさか、そのネックレスを気に入ったの、あなたなんですね。私もそれ、すごく好きなんです。ねえ、譲ってもらえませんか?」
期待を滲ませた瞳。
けれど佳奈が淡々と見返すと、その「期待」の奥に、隠しきれない貪欲さが見えた。
譲ってほしいのは、ネックレスなんかじゃない。
――薄井礼央を、返せ。
そう告げているのと同じだ。
けれど返すも何もない。礼央の心に最初から入っていたのは、ずっと須藤唯だったのだから。
滑稽で、笑えてくる。佳奈は口角をわずかに引きつらせる。
「お好きなら、そちらの男性にお値段を出してもらえばいいんじゃないですか。最終的にどなたに売るかは、お店が決めることでしょう? わざわざ私に聞く必要、あります?」
そちらの男性。
薄井礼央の眉間の皺が、さらに深くなる。
離婚を口にしたと思えば、今度はこんな他人行儀な呼び方。名取佳奈は、いったいどこまで拗ねて、どこまで騒ぐつもりなんだ。
薄井礼央が一歩前に出る。両手をポケットに突っ込み、沈んだ顔で佳奈を見下ろした。
「母さんはまだ入院してる。その間にお前は、ここで翡翠のネックレスだと? 佳奈、お前に心はないのか。石でできてるのか?」
胸の奥を、鋭い針で突かれた。佳奈の視界が一瞬で赤く滲む。
かつて彼に、心の全部を差し出した。返ってきたのは冷たさと傷だけ。
だからもう、取り戻したいだけなのに――礼央の目には、以前より残酷になった妻に映るのだろうか。
本当に、皮肉だ。
佳奈は唇を噛み締める。舌先に濃い血の味が広がって、ようやく感情の波が押し戻される。
そして店員に向き直った。
「これ、いくらですか」
店員は薄井礼央と須藤唯を見て、それから佳奈を見る。露骨に鼻で笑うような視線になった。
「こちらは今年の新作でして、500万以上いたします。おお客様、ご予算が難しいようでしたら、お譲りになったほうがよろしいかと」
須藤唯がわざとらしく薄井礼央のそばへ寄り、ため息を落とす。
「佳奈さん、買えないんですね……。礼央、佳奈さんの生活費、もう少し増やしてあげたら? ネックレスは私が買います。私には仕事がありますし。佳奈さんは……ずっとお家にいらっしゃるだけですもんね」
最後の数文字だけ、妙に強く噛んだ。佳奈にははっきり分かった。
気遣うふりで、見下している。
胸がひゅっと縮む。反射的に佳奈は礼央を見た。
薄井礼央は以前と同じだ。守りもしない。無言のまま、ブラックカードを一枚、店員に差し出した。
「それをもらう」
そして佳奈へ視線を移す。瞳は暗く、底がない。
「佳奈、ここで機嫌を取れないような真似をするな。この数年、誰もお前に借りはない」
佳奈は口を開いた。だが喉に何かが詰まって、音にならない。
心臓だけが、胸の中で破裂したように痛む。
そうだ。薄井礼央は、彼の言う意味では、佳奈に何も借りていない。
あのとき助けたのは自分の意思だ。今こうなっているのも、自分が選んだ結果だ。
佳奈は目を伏せ、ゆっくりと掌を握り締める。酸っぱく苦い感情が堰を切って溢れ出し、胸の奥をずぶずぶに濡らしていった。
もっと早く目を覚まして、線を引くべきだった。そうすれば今日みたいに、誰かの笑い話にならずに済んだのに。
店員は慌てて翡翠のネックレスを包み、丁寧に須藤唯の手へ渡した。
須藤唯はそれを受け取り、佳奈に申し訳なさそうな笑みを向ける。
「佳奈さん、横取りしたって思わないでくださいね。もし他のアクセサリーが気になるなら、礼央にまたお支払いしてもらいますから」
まるで自分が奥様だ、と言わんばかりの振る舞い。正真正銘の薄井夫人は自分だと、周囲に示している。
佳奈は首を横に振る。もう言葉を交わしたくなくて、踵を返した。
けれど少し歩いたところで、薄井礼央が追いつき、進路を塞いだ。
彼は片手を上げ、包まれたままの瑪瑙のブレスレットを、佳奈の胸元へ投げ入れるように寄こした。さっきの翡翠に比べれば、石の質は明らかに落ちる。
「唯がお前のために選んだ。埋め合わせだとさ」
佳奈は唇を噛む。萎縮した左手に目を落とし、思わず冷たく笑った。
「埋め合わせ? 侮辱の間違いじゃないの」
薄井礼央も佳奈の手を見る。漆黒の瞳に痛みがちらりと走るが、すぐに平静に押し込められた。
「唯は言ってた。お前は障害があっても普通に生きられる。お前さえ気にしなければ、誰も気にしないってな。ましてこれは好意だ。どうしてそう捉える」
須藤唯が帰国してから、二人が彼女のことでぶつかるたび、薄井礼央は無条件に須藤唯の側に立った。
佳奈がどれだけ取り乱そうが、礼央の目には、みっともなく騒ぐ道化にしか映らない。
この瞬間、長年連れ添ったはずの夫を見上げながら、佳奈は今までで一番、疲れていた。
もう、続けたくない。
「礼央……須藤唯が言うことは全部正しくて、私がすることは全部間違いなの? そうなら、どうしてさっさと私と離婚して、須藤唯と一緒にならないの」
声は静かだった。けれどその奥に、積もり積もった疲労と悲しみが沈んでいる。
薄井礼央は眉をひそめ、痛みの色をさらに濃くする。
「佳奈、お前にとって結婚はそんなに軽いのか。したいからして、嫌になったら離婚。須藤唯とお前の本質的な違いが分かるか。あいつは誰も困らせない。お前はいつだって、自分のために人を困らせる」
一言一言が、尖った杭になって佳奈の心へ打ち込まれる。息ができないほど痛い。
薄井礼央が背を向けて立ち去っても、佳奈はその場から動けなかった。
胸の奥が、見えない手で引き裂かれていく。ひりつくような激痛だけが残る。
もし薄井礼央がここまで自分を憎むと知っていたなら――あの日、彼のプロポーズなど、どんなことがあっても断っていた。
この結婚は檻だった。檻の中でも花は咲かせられると信じていたのに、年月が経つほど、檻は逃げられない枷になっていった。
残りの人生まで、この檻に捧げるつもりはない。
――絶対に、離婚する。
