第3章
「胎児の発育状況は良好です」
森本教授はモニターを凝視し、その目に興奮の光をきらめかせた。
「キャリアとの融合率はすでに89%に達しています。これは前例のない成功率ですよ」
「何のキャリアですって?」
私は緊張しながら尋ねた。
森本教授は答えず、ただ一心不乱にキーボードを叩いて何かを記録している。
その時だった。クリニックの照明が突如として点滅を始めた。
閉め切られた窓の隙間から、ひやりと冷たい風が忍び込み、室温が急激に下がる。
「どうしたんですか?」
私は身を起こし、警戒しながらあたりを見回した。
森本教授は眉をひそめ、ブレーカーへと向かう。
「おそらく、配線の問題でしょう……」
突如、クリニックの裏口から一つの人影が音もなく入ってきた。
前田由香だ!
彼女は崖から落ちて死んだはずなのに、今、傷一つない姿でそこに立っている。ただ、その表情は昨夜よりも一層不気味で恐ろしいものに変わっていた。
「由香っ⁉」
私は驚愕のあまり叫んだ。
「どうして生きてるの?」
前田由香がゆっくりと首をこちらに向けた。彼女の瞳が、死んだ魚のように生気のない、不気味な銀白色に変わっているのが見えた。
「本来、わたくしに属するものを返しなさい」
彼女の声は虚ろで冷たく、昨夜の恐怖に満ちた少女とはまるで別人だった。
森本教授は由香の姿を見るなり、顔面が蒼白になった。
「ありえない……君はもう……」
「何を返すっていうの? 何のことだかさっぱりわからないわ!」
私は診察台から飛び降り、診察着をきつく握りしめた。
「夏花の魂の刻印、そして神代哲司の種子」
由香は一歩、また一歩と近づいてくる。
「それらは本来、全てわたくしのものだったはず」
森本教授は慌てて壁の非常ボタンを押す。
「警備員! 早く警備員を!」
しかし、クリニックの警報器はなんの反応も示さず、ドアの外の廊下さえも静まり返っている。
「無駄よ」
由香は冷笑した。
「ここはすでにわたくしの怨念に包まれている。おまえの体内のすべてを渡さない限り、誰もここから出られるとは思わないことね」
言うが早いか、彼女は両手を突き出し、私の腹部めがけて掴みかかってきた。
私は本能的に後ずさったが、診察台に阻まれて逃げ場を失う。
由香の手が私に触れようとしたその瞬間、体の中から灼熱の力が湧き上がるのを感じた。
「ああ——っ!」
私は苦痛の声を上げた。
次の瞬間、私の腹部から銀白色の触手のようなものが数本伸び、瞬く間に由香の両手を絡め取った。
「な、なにこれ⁉」
私は自分の体から伸びた奇怪な触手を恐ろしげに見つめた。
由香の顔に苦悶の表情が浮かぶ。彼女は必死にもがこうとするが、触手はますますきつく締まっていく。
「ありえない……夏花の力がどうしてここまで強く……」
由香は歯を食いしばった。
触手が突如、力任せに引くと、由香の右手がなんと、まるごと引きちぎられた!
「ああああ——っ!」
由香が凄まじい悲鳴を上げる。
恐怖すべきことに、ちぎれた腕の断面からは血ではなく、黒い液体が溢れ出していた。
私はめまいを感じ、那些触手がゆっくりと体内に戻っていく。
「これは始まりに過ぎない。覚えてなさい」
由香はちぎれた腕を抱え、その瞳に一層濃い憎悪を宿らせる。彼女はくるりと向きを変えると窓に駆け寄り、無事な左手でガラスを叩き割り、外へと身を躍らせた。
窓辺に駆け寄り下を見下ろしたが、そこにはがらんとした通りが広がるばかりで、由香の姿は跡形もなく消えていた。
「教授、今のは一体何だったんですか?」
私は震えながら森本教授に振り向いた。
森本教授は額の冷や汗を拭う。
「夜華さん、あなたの体内の変化は我々の予想をはるかに超えています。夏花の意識が覚醒し始めている。彼女があなたを守っている……いえ、彼女自身を守っているのです」
「誰かの器になんてなりたくない!」
私は怒りを込めて言った。
「すぐに手術をして! その何かを取り出して!」
「もはや不可能です」
森本教授は首を横に振った。
「夏花の意識はあなたの生命システムと完全に融合してしまった。無理に引き離せば、あなたの命が危うい」
その時、クリニックのドアが乱暴に押し開けられた。
神代哲司が全身血まみれで駆け込んできた。スーツは破れ、髪は乱れ、激しい戦いを経てきたかのようだ。
「夜華!」
彼は私のもとへ駆け寄る。
「怪我はないか?」
「哲司? どうしてそんなに血だらけなの?」
私は驚いて彼を見つめた。
「ここへ来る途中で由香に会った」
神代哲司は私をきつく抱きしめる。
「彼女はもう人間じゃない。何かの怨念に操られている」
「どういうこと?」
「五年前に彼女が逃げ出した時、魂に深刻な損傷を負った。この数年間、彼女は他の『再現体』の魂の欠片を吸収して生き永らえてきたんだ」
神代哲司の声には罪悪感が滲んでいた。
「彼女は魂の継ぎ接ぎとなり、完全に狂ってしまった」
森本教授が立ち上がる。
「神代様、夜華さんは先ほど驚異的な防御能力を発揮されました。夏花の意識の覚醒は、予想よりずっと早いようです」
「わかっている」
神代哲司は私の頬を優しく撫でた。
「夜華、今夜からもう一人で行動してはいけない。由香は諦めないだろう」
話している最中、クリニックの外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「警察だ! 全員手を挙げろ!」
数名の制服警官がクリニックに踏み込んできた。先頭に立つのは佐藤警部だ。
「神代哲司さん、ご同行願います」
佐藤警部は手錠を見せつける。
「今夜、桜ヶ丘学園付近で複数の重傷害事件が発生しました。あなたが現場にいたという目撃情報があります」
「待ってください!」
私は神代哲司の前に立ちはだかる。
「彼は私を助けに来てくれたんです!」
「橘さん、被疑者を庇わないでください」
佐藤警部は厳粛に告げた。
「学園の裏山で大量の血痕と……出所不明の人体組織が発見されています」
神代哲司は抵抗せず、警官に手錠をかけられるがままになった。
「夜華、俺の言ったことを覚えておけ」
彼は私の目を深く見つめる。
「お腹の子を守るんだ。それが俺たちの唯一の希望だ」
「哲司!」
私は駆け寄ろうとしたが、佐藤警部に制された。
「神代さん、あなたには黙秘権がある。だが、あなたの一言一句が法廷で証言として採用されることになる」
連行されていく神代哲司の後ろ姿を見つめながら、私はかつてないほどの絶望を感じていた。
外から、泣き訴えるような、物悲しい尺八の音が聞こえてくる。
あれは、夏花が私を呼んでいる。
あるいは、彼女自身を呼んでいるのかもしれない。
