第4章

「あの胸の噛み痕を見ろよ、まさしく林原奥さんじゃないか!」

「違う! 私じゃない」

 私は必死に首を振った。

 だが、誰も私の言葉になど耳を貸さない。

 一瞬、オークション会場全体が沸き立ちました。

「一千万!」

「五千万!」

「八千万!」

 これまで私を鼻で笑っていたマフィアのボスたちが、狂ったように値を吊り上げ始める。その瞳は、貪欲な光でぎらついていた。

 膝が震えて、立っていることさえままならない。

 この男たちは何を競っているの? 私の尊厳、私の苦痛、そして私の最も忌まわしい記憶を、金で買おうとしているのだ。

「林原奥さんもなかなかの玉だな。あれだけ遊ばれても、まだ林原洋佑が手放さないわけだ」

 誰かが下卑た声で品定めをする。

 オークショニアが、ここぞとばかりに煽り立てた。

「さあ皆様、これは唯一無二の『芸術品』でございます! この機を逃す手はありませんぞ!」

 震える体でその場から逃げ出そうとしたその時、美保子が『善意』たっぷりに私の肩を押さえつけた。

「皆様の笑い者になってはいけませんわ」

 彼女の手はまるで万力のように食い込み、私は身動き一つ取れない。涙で視界が滲む。けれど泣いてはいけない。こんな連中の前で、涙など見せてなるものか。

 私はただ、あの恥辱にまみれた写真が、横暴そうな顔つきの中年男に一億円で落札されるのを、呆然と見送ることしかできなかった。

 一億。私の苦しみに一億の価値がついたとでも? 傑作だわ。

 屋敷に逃げ帰るなり、私は酒の棚へ直行した。

 不安と恐怖で息ができない。この屈辱を一時でも忘れるには、強い薬酒が必要だった。

「ユリカ、その体……確かに男を狂わせるわね」

 背後から、美保子の声がした。

「もうやめて!」

 私は泣き崩れそうになりながら叫ぶ。体の震えが止まらない。

 あの記憶は、あまりにも残酷すぎた。

「あら、臆病な兎が反抗するの? 怖いわぁ」

 私は酒瓶を握りしめ、振り返って彼女を睨みつけた。

「最後に一度だけ警告するわ。自分から洋佑の元を去りなさい。さもなければ……」

「さもなければ、何?」

 美保子は冷ややかに笑った。

「私があんたなんかを怖がるとでも思ってるの?」

「それに、洋佑がくれる一月のお小遣いは、凡人が一年かけて稼ぐ額以上よ。どうして私が、そんな生活を手放さなきゃいけないわけ?」

「後悔することになるわよ!」

 私は彼女を睨み据えた。

 その時、外で車のエンジンが止まる音がした。

 美保子の顔色が、瞬時に変わる。

「わざとじゃなかったの、あれがあなたの絵だなんて知らなかったわ!」

 私は呆気にとられた。

「は……?」

 次の瞬間、美保子は私が握っていた酒瓶を無理やり掴むと、力任せに自分の頭へ叩きつけたのだ。同時に、自らのドレスを引き裂く。

「きゃあああ――助けて! 殺される!」

 美保子がその場に崩れ落ちる。額から血を流し、衣服は無惨に破れていた。

 バンッ! と扉が乱暴に開かれ、洋佑が飛び込んでくる。

 彼の目に入ったのは、血まみれの美保子と、酒瓶を握ったままの私だった。

「この毒婦が!」

 彼の瞳に激情の炎が宿る。

「オークションで俺の顔に泥を塗った挙句、美保子にまで手を上げるつもりか!」

「違うの――」

 震える声で訴え、私は慌てて酒瓶を取り落とした。

「洋佑、信じて。私は彼女を傷つけてない!」

「じゃあこの状況をどう説明する? 美保子が自分でやったとでも言うのか!」

 説明しようと口を開きかけた瞬間、乾いた音が響き、頬に衝撃が走った。

「黙れ!」

 洋佑が怒号を上げる。

「この狂人め、お前など救うんじゃなかった!」

「こいつを地下牢へぶち込め!」

 嫌! 彼は何をするつもり? どうして地下牢なんかに?

 私は無理やり、一族の地下牢へと引きずり込まれた。そこは陰湿で、カビ臭く、かつて無数の『裏切り者』たちが拷問された場所だ。

 手首が鉄鎖で拘束され、冷たい金属が皮膚に食い込む。

「今日、あれだけの恥をかかされたことは、まだ精算していないぞ」

 洋佑は火炉の中から、真っ赤に焼けた家紋の焼き鏝(ごて)を取り出した。

「その上、美保子まで害そうとするとはな」

「やめて、洋佑、話を聞いて――」

 泣き叫びすぎて、私の声はすでに枯れていた。

「一生、この恥辱を背負って生きろ」

 彼は私のドレスを乱暴に引き裂くと、その焼き鏝を首筋に押し当てた。

 ジュッ、という音と共に、引き裂かれるような激痛が走り、私は絶叫した。肉の焦げる異臭が地下牢に充満する。

「不貞者の烙印だ!」

「私こそが……あなたの妻なのに……」

 私は消え入りそうな声で呟いた。

 痛みに意識が飛びそうになった瞬間、腹部に強烈な衝撃が走った。彼に蹴り上げられたのだ。

「クズが! お前のような疫病神を娶ったのが間違いだった!」

 続けざまに数発、重い蹴りが入る。腹部の激痛と共に、温かい液体が太腿を伝い落ちていくのが分かった。それは間違いなく、血だった。

 どうして、お腹がこんなに痛いの?

 助けて……誰か……。

 私は冷たい石畳の上に丸まり、血の海の中で徐々に意識を手放した。

 目が覚めると、私は病院の白いベッドに横たわっていた。

 傍らには大倉が立っている。父の配下で、敬太郎が生前、私のそばに置いた忠実な執事だ。彼が私を助け出してくれたらしい。

「奥様、お目覚めですか」

 看護師が恐る恐る口を開いた。

「出血が多量でしたので……胎児は助かりませんでした。医師の話では、今後お子様を望むのは難しいかと……」

 胎児? 私が、妊娠していた?

 私は無表情のまま天井を見つめていたが、心の中は崩壊していた。

 私には子供がいたのだ。それなのに、その存在を知ることさえなく失ってしまった。私と洋佑の子を。

 今となっては、もう何もない。

 涙が溢れ出し、止まらなかった。痛みからではない。喪失感からだ。私は子供を失い、母になる機会さえも永遠に奪われたのだ。

 三日後、美保子が見舞いにやってきた。

 額には小さな絆創膏が一枚貼られているだけで、傷が大したことないのは明白だった。

「ユリカ、大丈夫?」

 彼女は白々しい猫なで声で言った。

「洋佑に何度もお願いして、やっと会う許可をもらえたのよ」

 私は冷ややかな目で彼女を見つめ、一言も発さなかった。

 美保子の猿芝居は続く。

「本当に、こんなことになるなんて思わなかったわ。全部私が悪いの……」

 私は、以前から用意していた血判付きの離婚届を取り出した。一度署名すれば、二度と撤回できない代物だ。

「あなたの勝ちよ、美保子。彼に伝えて。『これは私の悔過書だ』って。あんたの得意なやり方で、彼にサインさせなさい」

 私は書類を彼女に突き出した。

「本当に、全部諦めるの?」

 私は目を閉じた。

「疲れたのよ、美保子。欲しいものは全部、あんたにあげるわ」

 けれど、心の中では分かっていた。これは終わりではない。始まりなのだと。

 美保子は書類を手に取り、勝ち誇った笑みを浮かべた。

「もっと早くこうすべきだったのよ」

 病室を出る際、彼女はナースステーションの前でわざとらしく大きな声を上げた。

「彼女、精神状態がとても不安定だから、厳重な監視をお願いしますわ!」

 二日後、彼女は署名済みの離婚届を持って戻ってきた。

「数日間、洋佑を連れて屋敷を空けるわ。彼の前から完全に消え失せるには十分な時間でしょう?」

 私は『林原洋佑』の署名を見つめた。指先は微塵も震えなかった。

 かつて胸をときめかせたその名は、今や吐き気しか催さない。

 屋敷に戻ると、私は美しい思い出の品をすべて焼き払った。写真も、手紙も、記念品も、すべて灰に変えた。

 鏡の前に立ち、首筋から鎖骨へと伸びる醜い火傷痕を見つめる。

 この烙印は、洋佑が私にした仕打ちを永遠に忘れさせないだろう。

 最後に、私は大倉に電話をかけた。

『大阪行きのチケットを手配して』

『本気ですか? あそこは敵対組織の縄張りですが』

『ええ、確信しているわ』

 通話を切ると、私は血の誓いが込められた指輪をサイドテーブルに置いた。

 この指輪は、私が最も無邪気だった時代を見届け、そして最も無惨な結末を見届けた。

「さようなら、林原洋佑」

 私は静かにそう呟き、かつて愚かにも自分の居場所だと思い込んでいた生活に、背を向けた。

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