第3章
目の前の光景ほど、衝撃的で、そして屈辱的なものはなかった。
琴音は全身から血の気が引いていくのを感じた。
和也は薬を盛られても、自分とは関係を持とうとしないのか。それどころか、寧々の下着を使って自分で処理するなんて。
彼女はふらふらと二歩後ずさり、瞳の奥に残っていた最後の光が、ふっと消え失せた。
長年、彼の背中を追いかけ続けてきた自分の想いが、まるで徹底的な笑い話に成り果てたかのようだ。
自分自身が、最大の笑い草だ。
琴音にはそのドアを押し開ける勇気などなく、足元をふらつかせながら自室へと戻った。
離婚。
絶対に、離婚する。
琴音はまたしても、メラトニンに頼ってその夜をやり過ごした。
だが翌朝、リビングから聞こえてくるけたたましい破壊音で目を覚ました。
「なんだよこの不細工なやつ! なんでリビングに置いてあるんだよ? ほんっとダサい」
琴音が階下へ降りると、そこには炎がリビングの装飾画をすべて壁から引き剥がしている姿があった。ガラスの額縁は粉々に叩き割られ、丹念に描かれたキャンバスは悪意に満ちた黒いインクで塗りつぶされている。
琴音は大きく目を見開いた。
これらの絵は彼女の処女作であり、美術界でその名を轟かせた最初のきっかけでもあった。
のちに和也の会社経営を支えるため、次第に業界から身を引いていったものの、その実績は確固たるものだ。
現在、彼女の作品はオークションで価格が高騰している。それでも売るのが惜しくて、ずっと大切に家に飾って保管していたのに。それが今、すべてゴミ屑と化していた。
「ゴミはゴミ箱に捨てるべきだよね」
炎は飾られていた絵をすべて台無しにした後、得意げに笑い声を上げた。
将来、自分がこの家の主人になるのだ。
この家に何を飾り、何を置くかは、すべて自分が決めることだ!
琴音は階段に立ち、その一部始終を冷ややかな目で見下ろした。
「もう気は済んだ? まだ遊び足りないなら、もっと壊せばいいわ。二階の部屋にも、こういう絵はたくさんあるから」
炎はびくっと肩を揺らし、半信半疑で聞き返した。
「ほんとに?」
「ええ」
琴音の中から怒りはすっかり消え失せていた。床に散らばっているのがかつての自分の血と汗の結晶であっても、気にする素振りすら見せず、淡々とした顔でソファに腰を下ろす。
「絵をしまってある部屋の場所、教えてあげようか?」
炎は琴音の急な態度の変化が理解できず戸惑ったが、それでもふんぞり返って言い放った。
「ママが、ここはこれから僕の家になるって言ってたもん。こんな不細工なもの、壊されて当然だ! 今日はこれくらいにしておいてやるけど、また機嫌が悪くなったら捨ててやるからな」
琴音は無表情のまま頷いた。
「もう捨てないなら、計算を始めましょうか」
彼女はリビングの引き出しから電卓を取り出した。
「あなたの足元にあるその絵、以前のオークションでの落札価格は2億」
「右手にあるその絵は、8000万」
「残りの絵も、高値で買いたいという人がいるわ。親戚のよしみで、少し割引してあげる」
「5億よ」
琴音は電卓の数字を炎の目の前に突きつけた。
「払いなさい」
炎は目を丸くして信じられないという顔をした。ずらりと並んだゼロの数に、すっかり怯えている。
「こんな不細工なものがそんなに高いわけないだろ、嘘だ! 僕が子どもだからって、騙せると思うなよ!」
炎は必死に強がってみせたが、その瞳にはすでに怯えの色が浮かんでいた。
琴音はそれを冷ややかに見つめ、思わず唇の端を吊り上げた。
彼女は国内の美術界で、百年に一人の天才と称されてきた。
数え切れないほどの大きな賞を受賞してきた彼女の作品なら、この価格はごく当たり前のことだ。
炎の反応を見る限り、彼もこの絵がどれほど高価なものか、ある程度は知っていたはずだ。
小さな子どもがそんな事情を知るわけがない。裏で誰かが入れ知恵をしたに決まっている。
「信じないなら、警察を呼んで話してもらうしかないわね。他人の高額な財産を勝手に壊して賠償しないなら、捕まって刑務所に入れられるのよ」
「それとも、今すぐ弁護士を呼んで被害額を計算させましょうか。この絵のせいで、あなたがどれくらい長く刑務所に入ることになるか、教えてもらうといいわ」
「今はまだ子どもだから大丈夫。少年院が預かってくれるわ。少年院を出た後は、そのまま刑務所行きね」
琴音は指を折って数えるふりをした。
「あなたが50歳になる頃には、きっと自由になれるわよ」
炎は一瞬で顔面を蒼白にし、床にへたり込むと、次の瞬間には大声を上げて泣き出した。
「刑務所なんてやだぁ! 入りたくないよぉ!」
その泣き声にようやく気づいたのか、寧々が慌てて二階から駆け下りてきて、炎を抱きしめた。
「どうしたの? 炎、ママに何があったか教えて」
炎はしゃくり上げながら、琴音を指差した。
「あの人が、僕を刑務所に入れるって! お金も払えって! 刑務所なんてやだ!」
寧々は怒りに満ちた顔で琴音を睨みつけた。
「炎はまだ子どもなのに、どうしてそんなことで脅かすの? この子にトラウマが残ったら、あなた責任取れるの?」
「子どもが分別を持たないのは構わないわ。その代わり、保護者が責任を取るんだから」
琴音は床に散乱した絵の残骸を指差し、さらに電卓の数字を指し示した。
「賠償してちょうだい」
寧々は信じられないというように目を見開き、その瞳にはギリッと歯を食いしばるような憎悪が混じっていた。
「琴音さん、子どもがやったことなのに、そんなに目くじらを立てるつもり? それに、あなたが業界を引退してからもう随分経つじゃない。この絵にそんな価値があるわけないわ」
彼女は大きく深呼吸をした。
「でも、これがあなたの思い入れのある品だってことに免じて、1000円なら払ってあげる」
その額を聞いて、琴音は危うく吹き出しそうになった。
数億の値段がついた時でさえ、売らなかったのだ。
それを今、たった千円で片付けようとしている。
寧々が降りてきて味方になってくれたのを見て、炎は再び図に乗った。
「ママ、こんなの1円の価値もないよ」
「絶対に賠償しないってことでいいのね?」
琴音はどうでもよさそうに頷き、スマホを取り出して自分のアシスタントに電話をかけた。
「弁護士を手配して。裁判を起こすわ。他人に財産を悪意を持って損壊された件での損害賠償よ」
寧々の瞳が収縮する。
「琴音さん、本気なの? そこまでする必要ある? あなたもいい大人なんだから、小さな子ども相手に目くじらを立てないでよ」
寧々に「目くじらを立てる」と言われるのは、これで二度目だ。
琴音は通話を切ると、ゆっくりと顔を上げて彼女を見た。
「何か勘違いしてない? 私が訴えるのはあなたよ。だって、あなたが第一保護者なんだから」
「あなたって人は……!」
寧々の瞳の奥から、今にも溢れ出しそうなほどの怨恨が覗いた。ここ数日、ずっと琴音よりも優位に立っていた。相手はとうに諦めたのだと思っていたのに、まさかここで反撃してくるとは。
彼女がさらに何か言い返そうとしたその時、玄関から足音が響いた。和也が帰ってきたのだ。
寧々は一瞬にしてひどく傷ついたような顔を作り、声を詰まらせながら口を開いた。
「あなたがずっと、私とこの子を追い出したがっているのは分かってる。でも、私だってどうしようもなくて、一時的にここに住まわせてもらってるだけなのに。私に不満があるなら私に言えばいいじゃない。どうして小さな子どもを目の敵にするの?」
「その上、刑務所に入れるだなんて言って、炎を脅かすなんて……!」
炎もそれに合わせて、大声で泣きわめき始めた。
和也の顔が瞬時にどす黒く沈んだ。
「どういうことだ?」
