第5章

ドアの前に立った寧々は、和也の顔が急に険しくなるのを見て、内心で小さく息を呑んだ。

石川家がずっと自分を見下していることは、分かっている。

五年前もそうだったし、離婚して炎を連れている今となっては、治夫はなおさら自分を認めないだろう。

もし治夫さえ排除できれば、自分は名実ともに石川家の奥様になれる。石川家のすべては、自分と炎のものになるのだ。

そう考えると、寧々の瞳の奥に一瞬だけ暗い光がよぎった。

和也は琴音の言葉に顔を青ざめさせ、冷え切った声で言い放つ。

「忘れるな、寧々がああなったのはお前のせいだろうが」

「元凶はお前だ。ここで喚き散らす資格なんてあるのか」

かつての媚びへつらうような態度から一変し、冷たく突き放すような琴音の姿に、和也は内心でわずかに動揺した。

だが、すぐにまた冷ややかな表情を取り繕う。

「今すぐあいつら親子のところへ行って謝れ。そうすれば、今日のことは無かったことにしてやる」

昨日まで自分に死ぬほど惚れ込んでいた女が、手のひらを返したように離婚を突きつけ、関係を断とうとしているなど、到底信じられなかった。

これが駆け引きでなくて何だというのか。

和也には、そう確信できるだけの自信があった。

しかし、再び顔を上げると、自分に向けられた琴音の眼差しには、明らかな軽蔑が混じっている。

その瞬間、和也はまるで別人を見ているかのような錯覚に陥った。

琴音は冷たく鼻で笑う。

「あなたたちのお芝居に付き合っている暇はないの」

そう言い残し、荷物を手に取って立ち去ろうとする。

和也は胸の奥を突かれたように、無意識に彼女の手首を掴もうとしたが、琴音は体を逸らしてそれを避けた。

彼女は足を止め、振り返る。その顔には、隠そうともしない嫌悪感が張り付いていた。

この時になってようやく気づいた。自分がかつて深く愛したこの男が、どれほど身勝手な生き物であるかに。

彼の心の中に、自分の居場所など最初から無かったのだ。

以前の彼女は、真心を尽くせば人の心は動かせるのだと信じていた。

だが、真心ほど無価値なものは無いと思い知らされた。

心の中に残っていたほんのわずかな愛情すらも、今日この日をもって完全に消え失せたことに、琴音は気づいていた。

自分の下した決断は、間違いなく正しい。

「離婚するかどうかは、あなたが決めて。不倫をしたあなたが、石川家の体裁を守るかどうかも、あなた次第よ」

そう言い捨てると、彼女は二度と振り返ることなく別荘を後にした。

とうに一階へ戻っていた寧々は、子どもを抱きかかえながら、迷いなく去っていく琴音の背中を勝ち誇ったような目で見送った。

あの木偶の坊のように退屈な琴音が、自分に勝てるはずなどないのだ。

石川家の別荘を出た瞬間、琴音はふうっと長く息を吐き出した。

自由になった。

車に乗り込み、片手でハンドルを握りながら、親友の酒井梨乃(さかい りの)に電話をかける。

「飲みに出ない?」

二十年来の付き合いになる梨乃は、からかうような言葉を飲み込み、その誘いを聞いて目を丸くした。そして、信じられないといった声で返す。

「ちょっと! あなた誰?」

親友の反応に、琴音は思わずふふっと吹き出した。

その表情は淡々としており、透き通るような白い肌が、浮世離れした清廉さを際立たせている。

だが、その声には明らかな感情の揺らぎが滲んでいた。

「梨乃、私よ。琴音」

梨乃も馬鹿ではない。当然、声の主は分かっている。

だが、琴音はいったい何の刺激を受けたというのか。結婚して以来、バーはおろか、一緒にショッピングに出かける時間すら激減していたというのに。

彼女は和也のために、良妻賢母であろうと全身全霊を捧げてきたのだ。

それなのに、あのクズ野郎の心は、愛すべき親友には微塵も向いていなかった。

それどころか、公の場で何度も彼女に冷たい態度をとっていた。

そんな琴音が、こんな夜更けに酒に誘ってくるなんて……。

もしかして?

もしかして、あのクズ野郎が琴音に手を上げたのでは?

梨乃は思考が飛躍しがちだが、次の瞬間には二つ返事で了承していた。

二人はそのままヨルという名のバーで待ち合わせた。

傾国と呼ぶにふさわしい美貌。極限まで飾り気を削ぎ落とした装いであっても、その内から溢れ出る圧倒的な存在感は隠しようがない。

周囲から、好奇と称賛の入り混じった視線がいくつも彼女に注がれる。

「離婚!?」

琴音は困ったように微笑んだが、その表情には何よりも深い解放感が漂っていた。

「梨乃、心配しないで」

「たった一人の男のために、私のすべてを犠牲にする必要なんてないもの」

梨乃はあわや嬉し泣きしそうになっていた。

興奮した様子で琴音の両手をぎゅっと握りしめ、その瞳には抑えきれない歓喜が溢れている。

「琴音! やっと目が覚めたのね!」

最初から、梨乃はこの結婚に大反対だった。

あのクズ野郎のどこが、うちの琴音に釣り合うというのか。

和也は琴音を利用していくつもの契約を取りつけ、用済みになれば蹴り捨てる。それだけならまだしも、寧々というあの泥棒猫とずっと関係を続けていたのだ。

界隈ではとうに噂になっていた。梨乃も琴音に忠告したことがある。

それでも、琴音は和也を信じることを選び続けてきた。

今、ようやくその呪縛から解き放たれたのだ。離婚すれば、すべてが良い方向へ向かうはずだ。

琴音の白く細い指先が触れると、ありふれたグラスでさえ、まるで芸術品のように見えた。

彼女がわずかに顎を上げると、雪のように白い首筋が覗き、その姿はどこまでも気高い。

よくよく考えてみれば、結婚してからというもの、彼女は一滴も酒を口にしていなかった。

琴音は根が古風な女だ。和也との間に子どもが欲しいと願い、ずっと妊活を意識していたのだ。

だが結局のところ、あの男は寧々のために操を守っていたというわけだ。

きらびやかな照明が瞬く中。

ふと、二人が初めて出会った時の光景が脳裏をよぎった。

十六歳。それは琴音にとって、人生で最も暗い時期だった。

母が亡くなってわずか一か月後、父である水原武治(みずはら たけじ)は、愛人との間に作った二人の子どもを連れて水原家へ戻ってきた。琴音から水原グループの一人娘という立場を奪い、さらには母が遺した資産までもすべて奪い取ろうとしたのだ。

愛人にとって、琴音が目の上のたんこぶであることは言うまでもない。

琴音は丸二年にわたって虐げられ、十八歳の成人を祝うパーティーの夜、薬を盛られて怪しげなクラブへ放り込まれた。

目を閉じるだけで、あの日の凄惨な記憶が鮮明に蘇る。

五、六人の男たちがソファに倒れ込む彼女を取り囲み、その目には隠しきれない邪悪な欲望がギラついていた。

彼らはすぐに手を出そうとはせず、ただ薬を盛られた琴音がどこまで淫らな姿を晒すのかを、面白半分に観察しようとしていた。

全身が焼けつくように熱く、両脚は恐ろしいほど力が入らない。喉から漏れ出そうになる甘い吐息をかき消すため、彼女は思い切り自分の頬を張り飛ばした。

激しい憎悪と羞恥心が、心を黒く塗りつぶしていく。

琴音はもう一度、自らの頬を強く打ち据え、どうにか意識を保とうと必死に抗った。

だが次の瞬間、一人の男が彼女の腕を乱暴に掴み、強い酒を無理やり口に流し込み始めた。

アルコールのせいでほんのりと頬を染めた琴音は、梨乃を見つめながら、当時の記憶をさらに手繰り寄せる。

次に目を覚ました時、自分は病院のベッドに横たわっていた。そして、傍らで付き添ってくれていた男こそが、和也だった。

彼が、彼女を救い出してくれたのだ。

若き日の淡い恋心は、野草のように彼女の心に根を張り、芽吹いていった。

琴音は和也を愛した。彼のためなら、どんなことでも喜んで身を捧げる覚悟があった。

自分がもっと努力すれば、上手くいくのだと信じていた。

だが今思えば、この数年間の自分の行いは、ひどく滑稽な笑い話でしかない。

琴音はグラスを置き、表情を変えぬまま、ただ頬に薄紅色の赤みを差していた。

その姿は、普段の彼女よりもずっと生気に満ち、鮮烈な美しさを放っている。

「あの日の恩は、もう十分に返したわ」

これからの彼女の心に、和也という男が存在する余地は二度とない。

琴音がふと視線を上げた時、薄暗いフロアの片隅から、鋭く探るような男の視線が向けられていることに敏腕に気づいた。

その男のシルエットには、ひどく見覚えがある。

琴音は眉をひそめ、もう一度そちらへ視線を向けた。

二人の視線が交錯した瞬間、琴音の心臓は、見えない大きな手で乱暴に鷲掴みにされたかのように跳ねた。

――彼だ!

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