第1章
夜十時、私は疲れ切った体を引きずって星野家へと戻った。
この一週間、結婚式の準備に追われ続けていた。ウェディングドレスの試着、メニューの確認、カメラマンとの打ち合わせ、その一つ一つの細部に至るまで自分でやらなければならなかった。
「里奈、おかえりなさい」
義母がリビングの革張りのソファに腰掛け、足元にはお湯を張った盥《たらい》が置かれていた。
「ちょうどよかったわ。私の足を洗っておくれ。ここ数日、足が少し浮腫んでしまってね」
私はバッグを置き、ルームスリッパに履き替えると、ソファの前に跪いて彼女の靴下を脱がせた。
温かい湯気が視界をぼやけさせる。私は機械的に彼女の足指を洗いながら、隣家の嫁の悪口を並べる彼女の愚痴を聞いていた。
「医者の妻は医者の妻らしくあるべきよ。そこらで顔を晒している女記者みたいじゃ駄目」
彼女は私の従順な様子に満足げな視線を向けた。
「真司があなたを選んだのは正解だったわ。分を弁えているもの」
私は頷きながら相槌を打ったが、心の中は虚無感でいっぱいだった。
足を洗い終え、自室に戻る。
真司はまだ書斎で明日の手術の資料を整理しているようだった。彼から、パソコンに入っている引き出物の配布リストをホテルに送るよう頼まれていたことを思い出す。
「仕事用書類」と名付けられたフォルダを開いた時、私は偶然にも深く隠されたサブフォルダを見つけてしまった——【人生計画】。
好奇心に駆られてその中の一つのExcelファイルをクリックする。ファイル名は【交際相手評価表】だった。
表には六人の女性の名前が並び、一人一人に詳細な評価項目がつけられていた。容姿、家柄、性格、職業の将来性、結婚適合指数。
自分の名前を見つけた時、心臓が止まりそうになった。
「佐藤里奈:容姿7点、家柄9点(両親不在で足枷なし)、性格8点(従順で聞き分けが良い)、職業の将来性6点(メディアの仕事は不安定)、結婚適合指数9.5点」
備考欄にはびっしりと書き込まれている。
「直系の親族がおらず、人間関係がシンプル。嫁姑問題の心配なし。良妻賢母タイプで、分相応。過度な向上心もない。家事ができ、子孫を残せる。母親が嫁に求める全ての条件に合致」
最後の一行は、鮮やかな赤字で記されていた。
「最良の結婚相手」
マウスを握る指が震える。私はそのまま下へとスクロールした。
他の女性たちへの評価は、より率直で残酷だった。
「田中美香:贅沢で浪費家。月々の消費額が十万円を超え、長期的な交際に向かない」
「森下由美:生活習慣がだらしなく、部屋が散らかっている。母親が不満」
「小林彩:扶養すべき障害者の弟がおり、経済的負担が重いため考慮外」
ただ、最後の一行だけが違っていた。
「山本奈美:容姿10点、性格10点、相性10点、愛情指数10点」
備考欄にはたった一行。しかしその一行が、私の目を酷く痛ませた。
「君は飛ぶ鳥だ。僕が君の籠になりたくない」
来客リストを確認した時の光景が蘇る。真司は山本奈美の名前の前で長いこと躊躇い、結局はその名前を消した。あの時は、席の配置の問題だと思っていたのに。
私は震える手でLINEを開き、「山本奈美」と検索した。
彼女のSNSの最新投稿は三日前のものだった。
「最悪! 好きな人が結婚するんだけど! あいつのウェディングカーぶっ壊して略奪婚してやる!」
添付されていたのは、涙でぐしゃぐしゃになった自撮り写真。
その下に一件のコメントがあった。星野真司からだ。
「略奪したって無駄だよ」
山本奈美が返信している。
「どうして? もう私のこと、愛してないってこと?」
星野真司。
「愛してるかどうかは重要じゃない。俺は、家族が認めた女性と結婚する」
山本奈美。
「あの佐藤里奈のどこがいいわけ? 聞き分けがいい以外に何ができるのよ」
星野真司。
「聞き分けがいいから、相応しいんだ。君は眩しすぎる。母さんが言ってた。医者の妻はそんなに優秀である必要はない、夫の影を薄くするだけだって」
山本奈美。
「だからあなたは人形を選んだの?」
星野真司。
「君を人形にしたくなかったんだ」
私はスマホを置き、化粧台の上のウェディングフォトに目をやった。写真の中の真司は穏やかで紳士的に笑い、私はといえば、完璧でなければとでも言うように、どこか恐る恐る微笑んでいた。
原来、私は完璧な代用品でしかなかったのだ。医者の妻として合格点の、ただの人選。
これだけ長く自分を騙してきたのだから、もう目を覚ましてもいい頃だろう。
ふと、彼のことを思い出す。かつて彼は私にこう言った。
『里奈、君の瞳には炎が宿っている。誰にもそれを消させてはいけない』
私はパソコンを閉じ、何も言わなかった。
真司が書斎から出てきた時、私はすでにベッドに横たわり、眠ったふりをしていた。
翌朝早く、私はNHKのビルに入ると、田中部長の執務室のドアを直接ノックした。
「シリア国境へ復帰させてください」
私は異動願をデスクに叩きつける。田中のコーヒーカップがカチャンと揺れた。
「君は狂ったのか!」
田中は眼鏡を押し上げ、声を八度も上げた。
「三年前、君が現地で見せた働きは確かに素晴らしかった。だが今は——来月には結婚する身だろう! 星野先生のような素晴らしい男性、どれだけの女が列をなしていると思ってるんだ!」
「もうしません」
自分の声が、自分でも怖くなるほどに平坦だった。
「この結婚は、やめにします」
田中部長の口がOの形に開いた。
「部長、私の決心は変わりません」
私は立ち上がった。
「シリア国境には、やり残した取材があります。あの場所はまだ私を必要としています」
田中部長は首を振って溜め息をついた。
「一時的な衝動で自分の幸せを台無しにするつもりか? 本気で言っているのか?」
「幸せですって?」
私は冷笑した。
「完璧な医者の妻という人形になって? 義母を満足させるために子供を何人か産んで? そうして三十五を過ぎたら、夫に年増だと疎まれる? それが幸せだと?」
田中部長はもう引き止めなかった。彼はゆっくりと頷く。
「三日後に出発だ。くれぐれも身の安全には気をつけろ」
私は頭を下げて感謝を述べ、ドアに向かって转身した。
星野真司、あなたはあなたの完璧な人生を続ければいい。
私は、私のいるべき戦場へ帰る。
