第4章

「佐藤美和子様のご家族の方でしょうか?」

老眼鏡を押し上げながら、青山花屋の女将さんが優しく私を見つめた。店内にふわりと漂う桜の香りが、母が生前最も愛した季節を思い出させる。

「はい、娘です」

昨夜は一睡もしておらず、声が少し掠れていた。

「まあ、よかったわ!」

女将さんは興奮したように手を叩いた。

「星野様から三年もお花をお届けいただいていたんですが、最近ずっと連絡が取れなくて。心配していたんですよ!」

女将さんは分厚い注文記録のファイルをめくりだした。

「ほら、2020年の4月から、一度も途切れたことがないんです」

私は震える手でその記録を受け取った。びっしりと書き込まれた文字が目に飛び込んでくる。

『星野海斗、連絡先090--、配送先:青山霊園〇区〇番墓地。備考:毎月第一日曜日に配送。桜の品種は問わないが、必ず一番新鮮なものを』

「最後に連絡があったのはいつですか?」

私の声はほとんど囁き声だった。

女将さんは最後のページをめくる。

「去年の12月の末ですわ。しばらく国を離れるから、配送を一旦止めてほしい、と。でも、お金はもう今年の年末まで前払いしてくださっているんですよ」

「彼……他に何か言っていましたか?」

「ええと」

女将さんは少し考えてから言った。

「もし、いつか佐藤様のご家族が訪ねてきたら、こう伝えてほしい、と——前を向いて進んでください、星の光が道を照らしてくれます、って」

涙が瞬く間に視界を滲ませた。

私は記録のファイルを、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。

「お嬢さん、大丈夫?」

女将さんが心配そうにティッシュを差し出す。

「よかったら、座ってお茶でもどうかしら?」

私は首を横に振り、バッグから財布を取り出した。

「桜の鉢植えを一つください。一番いいものを」

「お金は結構ですわ」

女将さんは優しく私を制した。

「星野様が言っていました。もし佐藤様のご家族がお一人で来られたら、お花を一つ差し上げてください、と」

一人で来た。

桜の鉢植えを抱え、よろめくように花屋を出ると、背後から聞き覚えのある足音が聞こえた。

「里奈!」

振り返ると、星野真司が息を切らしてこちらへ走ってくる。髪は乱れ、目の下には隈ができていて、彼もまた一睡もしていないのが見て取れた。

その手には、精巧な作りの箱が一つ。

「何?」

私は冷たく尋ねた。

「カメラだ」

真司は慎重に箱を開けた。

「君のお母さんのものと全く同じ、ニコンのF5。骨董カメラ店に頼んで探してもらったんだ。状態もすごくいい」

箱の中のカメラを見て、胸中に複雑な感情が渦巻く。確かに母のカメラと同じモデルで、傷のつき具合まで似ていた。

「里奈、ごめん」

真司の声は罪悪感に満ちていた。

「あのカメラが、君にとってそんなに大切なものだなんて知らなかったんだ」

「そう思う?」

私は冷笑した。

「あなたの私に対する理解って、あの評価シートの数字だけなんでしょう?」

真司の顔がさっと青ざめた。

「きみ……あれを、見たのか?」

「ええ、見たわ」

私は彼の目をまっすぐに見つめた。

「外見7点、結婚適合指数9.5点、最高の結婚相手、ね」

「里奈、あれは僕の本心じゃ……」

真司は必死に弁解する。

「母さんに言われてやった調査で……」

「じゃあ、お母さんに言われたことなら何でもするの?」

私の声はますます冷たくなっていく。

「私との結婚も、お母さんの頼みだから?」

真司は口を開いたが、言葉が出てこない。

私は手を伸ばし、彼の頬をそっと撫でた。

この顔は確かに整っていて、写真で見た海斗に少し似ている。

「星野真司」

私は静かに言った。

「残念ね。もうこの顔を見ることもなくなるなんて」

真司の目に涙が浮かぶ。

「里奈、行かないでくれ。やり直せる、もう母さんの言うことなんて聞かないって約束するから」

その時、真司のスマートフォンが鳴った。

山本奈美からの電話だった。

真司は一瞬躊躇したが、やはり通話ボタンを押した。

「もしもし、奈美?」

『真司さん……』

電話の向こうから山本奈美の泣き声が聞こえる。

『もう無理。ネットは私を笑う声でいっぱいで、インスタのフォロワーも二万人減っちゃった……』

「泣くな、すぐ行くから」

真司は焦ったように言った。

「どこにいるんだ?」

『空港……ヨーロッパに帰る。もう日本にはいたくない……』

真司は私を一瞥し、その目に葛藤の色が浮かんだ。

「里奈、僕は……」

私は首を振り、カメラの箱を彼に押し返した。

「行きなさいよ。あなたが本当に気にかけている人のところへ」

真司は箱を無理やり私の腕に押し付けた。

「これは受け取ってくれ。すぐに戻るから、ちゃんと話そう」

そう言うと、彼は慌ただしく駐車場へと走っていった。

遠ざかる彼の背中を見つめ、私はフンと鼻を鳴らした。

そして、ゴミ箱のそばまで歩いていくと、そのカメラの入った箱を中へと投げ入れた。

一週間後、私は成田空港のロビーに立っていた。

この七日間、私は体力を鍛え、アラビア語を学び、現地のガイドと連絡を取り、戦場ジャーナリストの生活に戻る準備をしていた。

真司からは、無数のメッセージとボイスメモが届いていた。

『里奈、話がしたい』

『結婚式は延期できる。家のことを整理する時間が必要なんだ』

『一体どこにいるんだ? どうして返事をくれない?』

『里奈、愛してる。こんな風に僕を苦しめないでくれ』

私は一つも返信しなかった。

最後のボイスメモは昨日の深夜に送られてきたものだった。

『里奈、明日は僕たちの結婚式だ。もし君が現れなかったら、婚約は破棄ってことで同意したとみなす。でも、どこへ行くのかだけ教えてくれ。心配なんだ』

私はスマートフォンの電源を切り、SIMカードを真っ二つに折ってゴミ箱に捨てた。

搭乗アナウンスが響く。

『コンゴ民主共和国、キンシャサ行き、CA863便にご搭乗のお客様は……』

私はスーツケースを引いて搭乗口へ向かった。バックパックには、私の全財産が入っている。着替え二組、医療キット、録音機材、そして母が生前私に宛てて書いた全ての手紙。

十八時間後、私はアフリカ中部に到着する。

そこには世界で最も危険なエボラ流行地域があり、武装紛争があり、助けを必要とする無数の難民がいる。

そして何より、そこには星野海斗がいる。

飛行機が離陸する瞬間、私は窓越しに東京の街の灯りが次第に遠ざかっていくのを見た。

「海斗」

私はそっと呟いた。

「あなたが世界のどこにいても、必ず見つけ出すから」

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