第2章
美咲視点
圭が去った後、私は天井を見つめ、物思いに耽っていた。彼の言う通り、次は正雄の番だ。計画通りに彼に接近し、信頼を得て、そして……
『彼を、殺す』
難しいことではないはずだ。しょせん、男なんてみんな同じ。少し女の色気を使えば、簡単に罠にはまる。
「相続関係の書類の件で、少し……」
三日後の午後、私は偽造した法律書類の束を抱え、正雄の執務室のドアをノックした。
「入れ」
重厚なオーク材の扉を押し開けると、途端にウイスキーと葉巻の香りが鼻を衝いた。
正雄はデスクの後ろに座っていた。白いシャツの袖は肘までまくり上げられ、筋骨隆々とした前腕が覗いている。ネクタイは緩められ、襟元も少し開いていた。その端正な顔は、真剣な眼差しでコンピューターの画面に向けられている。
『確かに、いい男ね』
「お父様はいつも、あなたの才能を褒めていらっしゃいましたわ」私はゆっくりと彼のデスクに近づきながら、囁くように言った。
彼が顔を上げた。その深い黒い瞳が、私を射抜く。
「親父から、あんたの話は聞いたことがない」
彼が口を開いた瞬間、空気が凍りついたかのようだった。
『やれやれ……単刀直入ね』
私は無理に笑みを保った。「たぶん……私たちの関係を、どう説明すればいいか分からなかったのかもしれません」
「説明?」彼は椅子に深くもたれかかり、私を品定めするように視線を這わせた。「二十三歳が五十八歳の男と結婚するというのは、確かにいくらかの説明が必要だろうな」
私は書類を彼のデスクに置き、わざとらしく身をかがめて、シルクのブラウスの胸元から魅力的な曲線が覗くようにした。「愛に年齢は関係ありませんわ、正雄さん。お父様は、私に安心感をくださいました」
彼の目が無意識に下を向き、すぐに逸らされる。喉仏がこくりと動いた。
『……かかった』
「安心感?」彼は立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。「黒田家では、誰も安全じゃない。親父も含めてな」
その言葉に、私の心臓が跳ねた。
「お父様の死に、何か不審な点があったとでもお思いで?」私は探るように尋ねた。
正雄は突然距離を詰め、その長身が圧倒的な威圧感を生み出す。私は後ずさりを余儀なくされ、背中が本棚にぶつかった。
「美咲」彼の声は低く、危険なほど磁力的だった。「あの心臓発作は、都合が良すぎると思わないか?」
『クソッ、本気で疑ってる!』
距離が近すぎる。彼の纏う微かなコロンの香りが届く。心臓の鼓動が不規則になった。
「お医者様は、急性心筋梗塞だと……」私は平静を装おうとしたが、声がわずかに震えた。
彼が手を伸ばし、その長い指がそっと私の頬を撫でた。あまりに突然で、あまりに親密なその仕草に、私は呆然とした。
「震えているぞ」彼は私を見つめ、その瞳は私の魂まで見透かすかのようだった。「恐怖からか……それとも、別の何かか?」
『ヤバ......一体、何が起きてるの?』
彼の指先が触れた肌が燃えるように熱い。全身に電気が走ったような衝撃。こんなの、計画になかった!
「私……」
私が言葉に詰まった、まさにその時、彼はすっと身を引いた。その顔には、嘲るような笑みが浮かんでいる。
「緊張しないでくださいよ、〝継母〟さん」彼は「継母」という言葉を、皮肉をたっぷり込めて強調した。「あなたがどれだけ正直か、試してみたかっただけです」
『くそ野郎……! 私を試してたんだ!』
羞恥と怒りが、一瞬でこみ上げてきた。たった今、私は本気で……この男に、何かを感じてしまったというのか?
「ボス!」ドアの外から、切羽詰まったノックの音がした。
顔に傷のある中年の男が飛び込んでくる。「田中家の連中が、埠頭でお待ちです!」
正雄の表情が一変する。「三十分後だと伝えろ」
「はっ!」男は慌ただしく出て行った。
正雄が背を向けて去ろうとするのを、私は思わず呼び止めた。
「私も、ご一緒していいですか?」
彼は足を止め、ゆっくりと振り返る。その深い瞳が、私を吟味していた。「一族の会合は、女が出る場所じゃない」
「私も黒田家の一員ですわ!」私は拳を握りしめた。「お父様の未亡人として、この家で何が起きているのか知る権利があります!」
正雄は静かに私を見つめ、私の顔に何かを探るように視線を走らせた。空気が張り詰め、自分の速い鼓動が聞こえる。
長い沈黙の後、彼はようやく頷いた。「いいだろう。だが覚えておけ。見てるだけだ。一言も口を開くな」
――
桜京港、夜の帳が下りる頃。
倉庫の中は薄暗く、潮とモーターオイルの匂いが濃密に漂っていた。二つのグループが対峙し、雰囲気は抜き身の刀のように張り詰めている。
田中家が連れてきたのは五人。率いるのは、顔に傷のある小太りの禿げた男で、小さく狡猾な目をしていた。
「黒田正雄!」禿げた男が大声で叫んだ。「お前の親父、くたばったんだってな? そりゃあ残念なこった! ハハハハ!」
周りの黒田家の男たちが怒りに燃え、手が腰元へと動く。
だが、正雄はただ静かに前に進み出た。「あんた、夜中に俺のシマに現れるとは、ただお悔やみを言いに来たわけじゃねぇだろ」
「当たり前だ!」禿げた男はにやりと笑った。「商談に来たんだよ! 西波止場地区のみかじめ料、半分をこっちに寄越せ!」
『なんですって!?』
「半分だと?」正雄は鼻で笑った。「冗談だろ?」
「冗談じゃねえ! 黒田和也が死んだんだ。そろそろシマの分け方を考え直す時だ!」
禿げた男が、ふと私に気づいた。その目に、いやらしい光が閃く。「おやおや、これが噂の若後家さんかい? 大した美人じゃねえか!」
男は唇を舐めずりした。「黒田家を始末した後は、この姐さんを俺がたっぷり可愛がってやるよ! 〝本物〟の男がどんなもんか、教えてやるからな!」
私の顔は、怒りと嫌悪で瞬時に赤く染まった。
次の瞬間、正雄が動いた。
彼は稲妻のように禿げた男に突進し、顔面に重い一撃を叩き込んだ。男は悲鳴を上げ、鼻の骨が折れ、血しぶきが飛ぶ。
「クソ野郎が!」正雄は男の腹を蹴り上げた。男は即座にエビのように体をくの字に折り曲げる。
そして彼は男の顔を踏みつけ、恐ろしく静かな声で言った。「俺の継母を、侮辱する度胸があるとはな」
彼は部下たちに向き直る。「こいつの舌を抜け」
「やめろ! やめてくれ!」禿げた男が必死にもがいた。
「待て」正雄はさらに強く踏みつけた。「伝えろ、親父が死んだからって、桜京のルールは変わらねえ。西地区は俺たちのモンだ。これからも、ずっとだ」
「もう一度、俺の〝家族〟に無礼を働いてみろ。次は舌を抜くだけじゃ済まねえぞ」
『私の、家族……』
その言葉が、胸の内に奇妙な温かさを灯した。彼は今、私を守ってくれたというの?
田中家の連中は、すごすごと引き上げていった。
『この男……』
あの瞬間、正雄は完全に別人だった。冷酷で、決断力があり、命を奪うことさえ厭わない。だが、私を守るために激昂した時……
私は自分の心臓が速く鼓動していることに気づいた。恐怖からではない。言いようのない、胸のときめきからだった。
――
それから二週間、私はあらゆる方法で正雄に近づこうと試みた。
執務室にコーヒーを届けに、丁重に断られた。
夕食に誘っても――言い訳をされて断られた。
『この男、鉄壁すぎる!』
圭に進捗を尋ねられるたび、私は「もう少し時間が必要だ」と嘘をつくしかなかった。彼の表情は次第に険しくなっていく、彼の忍耐が尽きかけているのは分かっていた。
『なんとかして、きっかけを見つけないと!』
ついに、突破口が開けた。
その夜、私は正雄が「仕事」を片付けに中華街へ行くと耳にした。
『これこそが、チャンス!』
偶然の出会いを装い、何か予期せぬ状況を作り出せば……
桜京中華街、午後十一時。
ネオンが明滅し、中国語の看板が夜の闇に怪しく浮かび上がる。私はレストランのドアの陰に隠れ、正雄と三人の部下が向かいの茶館に入っていくのを見ていた。
十分ほど待ち、いよいよ「偶然の出会い」を演出しようとした、その時.......
『ダダダダダッ!』
突然の機関銃の掃射が、夜の静寂を打ち破った!
『何が起きてるの!?』
茶館の中から恐怖の悲鳴が上がり、ガラス窓が砕け散り、火花が飛び散る。
奇襲だ!
少なくとも十人の黒服の男たちが、様々な角から現れ、サブマシンガンを構えて茶館に向けて乱射しているのが見えた。
『正雄が危ない!』
「伏せろ!」
背後から、聞き覚えのある声がした。突然現れた正雄が、私にタックルするように地面に押し倒し、その体で私を庇った。
『どうやって外に?』
「ダダダダッ!」
銃弾が私たちの頭上を飛び交い、壁に当たって火花を散らす。正雄は私をきつく抱きしめていた。彼の速い心臓の鼓動と、燃えるような体温が伝わってくる。
「なんでここにいる!」彼は私の耳元で、切迫した声で尋ねた。
「わ、私は、ただ通りかかっただけで……」
「クソッ!」彼は悪態をついた。「俺から離れるな!」
