第2章

 椎名陸には、前戯などという甘いものはない。

 彼は私のドレスを無残に引き裂く。その指先にあるのは乱暴な衝動だけで、ただの憂さ晴らしに過ぎなかった。

 背中がベッドボードに激しく叩きつけられ、鋭い痛みが背骨を駆け抜けて爆発する。

 心臓がぎゅっと縮み上がった。まるで誰かに心臓を強く握り潰されているようで、息ができない。下半身の痛みもまた、引き裂かれるようだった。

 視界が明滅し、意識が遠のいていく。

 その薄れゆく意識の狭間で、私は遥か昔へと連れ戻されていた。

 あの頃、椎名陸はまだ私を愛してくれていた。彼は私が壊れ物であるかのように、とても慎重で、痛くしないよう優しく触れてくれた。

 想いが高まると、甘く口づけをしてくれた。

 なのになぜ、今はもうキスしてくれないの?

「陸……」

 私は手を伸ばし、覆い被さる男の首に腕を回すと、夢うつつのまま唇を求めた。

 椎名陸の体が、石のように強張った。

 次の瞬間、彼は勢いよく顔を背けた。そこには露骨な嫌悪が滲んでおり、声は氷のように冷たい。

「触るな。水野千尋、お前は汚らわしいんだよ」

 その一言で、うとうとしていた意識が一気に覚めた。

 不意に、鼻の奥から熱いものが込み上げてくる。

 顔を背けると、白いシーツに赤い雫が点々と落ちた。

 重度の心不全による身体機能の崩壊。最近、鼻血が出る頻度はますます増えている。

 椎名陸の動きが止まる。

 彼は顔を寄せ、枕元の薄暗い灯りでその血痕を認めると、眉を顰めた。瞳の奥に、微かな、本当に微かな動揺が走る。彼は私の顎を掴んで顔を上げさせた。

「なんだこれは。どうして血が出ている」

 死期が近いことなど、知られたくない。

 私は何でもない風を装って血を拭い、唇の端を歪めて笑ってみせた。

「来る前に、客への反応が悪かったら困ると思ってね。興奮剤を少し飲んだの。どうやら効いてきたみたい」

 椎名陸の瞳から、先ほどの感情が一瞬で消え失せた。

 乾いた音が響き、頬を張られる。

「いい値で売るためなら、命懸けってわけか」

 頬が焼けるように熱い。耳の奥で嫌な音が鳴り響いている。

 私は舌で頬の内側を小突き、笑みを浮かべたまま沈黙した。

 椎名陸もまた、それ以上言葉を発しなかった。ただ、その行為はさっきよりもさらに激しさを増し、まるで私をこのベッドの上で殺してしまおうとしているかのようだった。

――椎名陸のベッドで死ねるなら、それも悪くないかもしれない。

 けれど、夜はあまりにも短い。目を開けると、すでに朝の光が満ちていた。

 部屋には私一人。

 サイドテーブルには札束が無造作に置かれている。

 手に取って数えてみる。

 たったの十万だ。

 全身の軋むような痛みに耐えながら服を着ていると、椎名陸がドアを開けて入ってきた。

 仕立ての良いスーツに身を包んだその姿は、昨晩の狂った獣と同一人物とは到底思えないほど、理知的で美しかった。

 私は手の中の金をひらつかせた。

「椎名社長、一晩でたったの十万? 随分と渋いのね」

 椎名陸はカフスボタンを留めながら、視線すら寄越さない。

「お前のような女には、それ相応の値段だ」

 私は札束をバッグにねじ込んだ。

「椎名社長の羽振りが悪いのなら仕方ないわ。よそに行って、別のお客さんでも探しましょう」

 ボタンを留める椎名陸の手が止まる。

 彼は弾かれたように顔を上げ、私を睨みつけた。

「ふざけるな」

「何が? 私は金が欲しいの。椎名社長がくれないなら、他で稼ぐのは当然でしょう?」

 椎名陸は冷笑を浮かべると、手近なメモ用紙を千切り、住所を走り書きしてベッドに放り投げた。

「今夜八時、ここへ来い。来れば、倍払ってやる」

 拾い上げて見てみると、西山区にある高級住宅街の住所だった。

「たったの二十万?」

「三回目は四十万、四回目は八十万、五回目は百六十万……水野千尋、俺の相手が何回務まるか、せいぜい頑張ることだな」

 それは、悪くない条件だ。

 私はメモをしまった。

 椎名陸は、従順な私を軽蔑しきった目で見下ろし、ドアを叩きつけるようにして出て行った。

 しかしその夜、私は約束の時間に間に合わなかった。

 来る途中、心臓の発作に襲われ、道端でうずくまったまま長い間動けなかったからだ。

 ようやくその住所に辿り着いた時には、もう九時近くなっていた。

 目の前に聳える懐かしい邸宅を見上げ、私は立ち尽くした。

 ここは、水野家だ。

 椎名陸は、なぜ私をここに呼んだの?

 疑問を押し殺し、コートの襟を合わせてインターホンを押す。

 応答はない。

 何度か押してみるが反応はなく、代わりに中から楽しげな笑い声が漏れ聞こえてきた。

 私は建物の側面に回り込み、隙間の空いたカーテン越しに中を覗いた。

 暖房の効いた室内、煌めくシャンデリア。

 巨大なデコレーションケーキが運び込まれている。室内では、母さんが誕生日のティアラを被り、満面の笑みで水野奈々を抱きしめていた。父さんはその傍らで、慈愛に満ちた眼差しを向けている。

 そして椎名陸は――水野奈々の隣に立ち、穏やかな表情でプレゼントを手にしていた。

 その四人こそが、まるで本当の家族のようだ。

 私はガラス越しに、かつて自分のものだった幸福を眺めている、迷い込んだ亡霊のようだった。

 意識が遠のく。

 彼は、どういうつもりで私をここへ寄越したの?

 彼らの幸せを見せつけるため?

 不意に、水野奈々が振り返った。彼女は、窓の外にいる私に気づいた。

 続いて、母さんも私のほうへと視線を向ける。

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