第3章

「窓の外に、誰かいない?」と、母さんが訊いた。

「見てくるわ」

 水野奈々がすかさず答える。

 一枚のガラス越しに、彼女は雪まみれになって震える私を見下ろした。

 そして私に向けて挑発的な笑みを浮かべると、分厚いカーテンをぴしゃりと閉め切ったのだ。

「木の陰よ、お母さん。外には誰もいないわ」

 私は拳を握りしめた。

 立ち去りたかった。だが、椎名陸の「倍額払う」という言葉が、呪いのように私の足首に絡みついて離れない。

 行くわけにはいかない。

 時間がないのだ。命を買うための金が、どうしても要る。

 私は深く息を吸い込むと、花壇から手頃な丸石を拾い上げ、渾身の力で勝手口のガラス戸めがけて叩きつけた。

 ガシャアンッ――

 鋭い割れる音が、静寂に包まれた冬の夜に響いた。

 屋内から漏れていた談笑が、ぴたりと止んだ。

 私は手を差し込んで鍵を開け、ドアを押し開く。全身に冷気をまとったまま、この暖かな楽園に押し入った。

 全員が、驚愕の表情で私を凝視している。

 母さんの笑顔が凍りつき、父さんは眉間に皺を寄せ、持っていたグラスを乱暴に卓へ置いた。

「水野千尋? よくものこのこと戻って来られたな!」父の怒鳴り声が真っ先に響く。「今日は母さんの誕生日だぞ。そんな化け物みたいな恰好で乗り込んで来て、誰への当てつけのつもりだ!」

 母さんは唇を引き結び、顔を背けた。私を一目見ることさえ嫌だというように。

 水野奈々だけは、一瞬の驚きを見せた後、すぐに歓喜の表情へと切り替えた。小走りに近づき、私の手を取ろうとする。

「お姉ちゃん! やっぱりお姉ちゃんだったのね! さっき外に見えた気がして……」

 彼女は目を潤ませ、いじらしく振る舞ってみせる。

「わざわざお母さんの誕生日を祝いに来てくれたんでしょう? わかってたもん、お姉ちゃんがまだこの家を大切に思ってくれてるって」

 私は身をよじり、彼女の手を避けた。

 凍りついた口角を無理やり引き上げ、椎名陸の前に歩み寄る。

「来たわよ。まさか、ここでヤるつもりじゃないでしょうね?」

 椎名陸がグラスを握る指に力がこもり、関節が白く浮き出る。

 彼が顔を上げる。かつては情愛を湛えていたその瞳は、今や氷のように冷え切っていた。

「水野千尋、お前はそこまで卑しい女になり下がったのか?」

「そうよ。卑しくなきゃ金なんて稼げないもの」

 私はコートのボタンに手を掛けた。

「椎名社長がこういうスリルをお望みなら、私に異存はないわ。両親の目の前なら、その分割増料金をいただけるのかしら?」

「ふざけるな!」

 激昂した怒号が飛ぶ。

 父が駆け寄り、振り上げた手で思い切り私の頬を張った。

 パァンッ!

 手加減のない一撃に、耳鳴りがして目の前が明滅する。口の端が切れ、血が滲んだ。

「水野千尋、お前には恥というものがないのか! 今すぐ出て行け!」

 母さんも顔を背けたまま、震える声で告げる。

「千尋、ここにあなたの居場所はないわ。帰ってちょうだい」

 頬が焼けるように痛い。私は両親を見ることなく、ただ椎名陸だけを凝視した。

「椎名社長、聞いたでしょう。彼らは帰れって言ってる。でも、この商談を持ちかけたのはあなたよ。ヤるの、ヤらないの? はっきりして」

 椎名陸は何かを言いかけたが、金さえ貰えれば何でもするという私の態度を見て、瞳の奥に残っていた僅かな揺らぎさえも嫌悪へと変えた。

「水野千尋……頭の中がそんなことばかりなら、もう服など着て出歩くな」

「いいわよ」

 私は頷き、ブラウスの襟元に指をかける。

「それも椎名社長のオーダー? 全裸になれば金をくれるのね?」

 言い終わるや否や、本当にボタンを外し始めた。

 一つ、二つ。

 露わになった鎖骨には、昨夜彼がつけた痣がまだ生々しく残っている。

「きゃあああ!」

 母さんが悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。

「恥知らずが! この恥知らずめ!」

 怒りで全身を震わせた父は、ついに堪忍袋の緒が切れたようだった。飛びかかって私の胸倉を掴み上げると、ゴミでも捨てるかのように玄関まで引きずっていく。

「水野家に、お前のような下劣な娘はいない! 失せろ! 二度と顔を見せるな!」

 私はなすがままに引きずられ、よろめいてドア枠に身体を打ち付けた。

 激しい衝撃に、心臓が雑巾絞りにされたような痛みが走る。

 喉の奥から鉄錆のような味がせり上がってくる。飲み下そうとしたが、どうにも抑えがきかない。

「ごふっ――」

 大量の鮮血が口から噴き出した。

 それは純白の雪を赤く染め上げ、父の磨き上げられた革靴にも飛沫を散らした。

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