第3章
いつの間にか、心海の誕生日がやってきた。
午前0時を少し回っただけで、スマホは同僚や友人からの祝福で埋め尽くされる。心海は一件ずつ返事を返し、食事の誘いはすべて丁寧に断った。
今回の海外研修は時間との勝負だ。30日以内に手続きを全部終え、必ず期限どおり出国しなければならない。
その時、スマホがまた震えた。
心海が目を落とす。酒井蒼真からのメッセージだった。
『心海、悪い。急に患者が来て、今日は帰れそうにない。誕生日、あとで埋め合わせする』
スマホを握る指に、じわじわと力がこもる。
酒井蒼真と知り合ってから、少なくとも25回の誕生日。彼は一度だって欠かしたことがない。金に糸目もつけず、毎回サプライズまで用意してきた男だ。
……それが、初めてのドタキャン。
心海は画面を消し、コートを掴んで家を出た。
出国の手続きはほとんど終えている。だが肝心の資料がいくつか見当たらない。家中を探し回り、思い当たった。
藤井家だ。
なら、と車を出す。
玄関をくぐった瞬間、奥から笑い声がこぼれ、藤井愛美の甘い声が響いた。
「お願い! 私と蒼真兄の結婚式、絶対にすっごく盛大にしたい! 世界一幸せなプリンセスになるの!」
「それに、パパとママに、私を送り出してほしい!」
……結婚式?
心海はその場で固まった。視線が、少しずつ奥へ滑っていく。
灯りに満ちた別荘のリビング。藤井父、藤井母、そして酒井蒼真が、まるで月を囲む星みたいに藤井愛美を中心に囲んでいた。三人の目は、甘いほどの寵愛で満ちている。
普段は厳しく寡黙な藤井父まで笑って言う。
「うちの愛美は元々お姫さまだ。式はノア・ホテルの最上階でやろう。芸能人もメディアも呼んで、派手にやるか? どうだ」
藤井母も続ける。
「結婚したら早く子どもも作りなさい。育児はお父さんとお母さんが手伝うから、あなたは楽しく遊んでればいいのよ」
酒井蒼真は口を挟まない。だが、その態度は徹底して『擁護』のそれだった
四人で作るその光景が、眩しすぎて目に痛い。
けれど――藤井父と藤井母は、心海と酒井蒼真が結婚していることを、もうとっくに知っている。
婚約を白紙にしたあと、藤井母は申し訳なさから心海を訪ねてきた。そこで偶然、心海の部屋にあった婚姻届を見つけたのだ。
「恥知らず! 男を奪うのがそんなに早いの!」
その日を境に、母娘の距離は決定的に開いた。藤井父と藤井母は、藤井愛美の『危うさ』を恐れ、示し合わせたように秘密にしてきた。
そして今――結婚を知ったうえで、二人を結びつけようとしている。
……よくもまあ、ここまで。
心海は胸の奥で苦く笑った。
「姉ちゃん、どうして帰ってきたの?」
先に気づいた藤井愛美が、にこやかに声をかけてくる。
酒井蒼真も視線を寄こした。ほんのわずかな驚きのあと、何かに気づいたような慌てが滲む。
「……どうしてここに」
声が不自然に揺れた。
心海は唇の端を上げる。静かで、刺のある笑み。
「酒井主任、今日は『急患』じゃなかったんですか。ここにいるってことは――先生のオフィス、藤井家に引っ越したんです?」
酒井蒼真は眉をひそめる。
「俺は……」
言いかけた口を、藤井愛美が明るく遮った。
「蒼真兄、元々予定あったんだけど、私のために休み取ってくれたの!」
「姉ちゃん、今日ね、私、蒼真兄にプロポーズしたの。断らなかった! すっごくうれしい!」
「結婚式の日、姉ちゃん、ブライズメイドやってくれるよね?」
酒井蒼真の眉間がわずかに寄る。
確かに藤井愛美はプロポーズした。だが彼は、はっきりと『応じた』わけではない。
説明しようとして――何かを思い、結局黙った。
藤井愛美は酒井蒼真の腕に絡み、幸福そうに笑う。
「パパも言ってた。いちばん盛大な結婚式にして、みんなに知らせるんだって。私が酒井夫人だって」
みんなに……。
心海のまつげが小さく震えた。胸の奥がじわりと酸っぱく滲んで、涙が出そうになる。
隠れて結婚したことは、すぐ双方の親にバレた。
酒井母は離婚を迫り、藤井父と藤井母は「妹から男を奪うな」と罵った。
心海は悔しくて、酒井蒼真に言ったのだ。結婚を公表したい、と。
世界中に知ってほしかった。自分と酒井蒼真こそが、ふさわしいのだと。
だが酒井蒼真は首を振った。
「心海、祝福されていない結婚だ。公表したら面倒が増える」
「もう少し待て。両親が折れたら……」
「その時、盛大な式を挙げてやる」
心海は信じて待った。
式は来なかった。認めてもらえる日も来なかった。
代わりに来たのは――酒井蒼真と藤井愛美の結婚式。
心海はしばらく酒井蒼真を見つめ、掠れた声で笑った。
「……そう。おめでとう」
酒井蒼真はその視線に胸が痛み、目を合わせ続けられなかった。
心海はそれ以上何も言わず、踵を返して二階へ向かった。資料を取って帰るだけだ。
背後で、藤井愛美の瞳に得意げな色が走る。つま先立ちで酒井蒼真にキスをしようとしたが、酒井蒼真はふいに顔を逸らし、唇は耳の端をかすめただけで終わった。
藤井愛美が固まる。
「蒼真兄?」
酒井蒼真は我に返ったように言う。
「……先にトイレ」
そう言い残し、足早に去った。
藤井愛美はその背中を睨み、目つきが一瞬で陰湿に変わる。
――まだ心海を捨てきれてない。あのクズ女を。
二階。
心海は必要な資料を見つけ、立ち去ろうとしたところで、藤井愛美が外から入ってきた。
「姉ちゃん、さっき下で……なんだか元気なさそうだった」
作り物みたいな心配顔で首を傾げる。
「最近、何かあったの?」
心海は眉をひそめた。
「何しに来たの」
「心配しにきたの」
藤井愛美は無邪気を装う。
「ついでにね。今まで蒼真兄の面倒見てくれてありがと。でもこれからは私がいるから、姉ちゃんは距離を置いてね」
――距離を置く。
心海は小さく笑った。
「どう置けばいいの? 寝る時に線でも引く? それとも『愛してる、抱きたい』って言われたら『だめ、距離置くから』って断る?」
藤井愛美の顔色が変わる。
「何言ってるの! 蒼真兄が、姉ちゃんと関係あるわけない!」
心海は表情を消した。
「藤井愛美、いい加減やめな」
「私のスマホに来た写真も、あなたのSNSの匂わせも、全部私に見せるためでしょ」
「そんなに酒井蒼真が好きなら、なんで今まで離婚を切り出させないの」
「まさか――あなた、浮気相手枠のままにされるつもり?」
「黙れっ!」
藤井愛美が甲高く叫び、心海を突き飛ばした。
「そんなわけない! 挑発して仲を裂こうとしてるだけ!」
次の瞬間。
藤井愛美は傍らの果物ナイフを掴み、心海へ突進した。
――その顔を、台無しにしてやる! そうなれば、蒼真兄さんが何に惹かれるのか、見ものね。
心海は息を呑み、身を捻って避けながら藤井愛美の手首を掴み、外へ押し返す。だが刃が掌をかすめ――
「っ……!」
鋭い痛み。じわりと血が滲み、すぐ赤が広がった。
「きゃっ!」
藤井愛美が床に倒れた、その瞬間――
「心海! 何をしてる!」
男の怒鳴り声が、背後から叩きつけるように響いた。
