第5章 深夜の争い
心海は、あのクズみたいな男女が戻ってくるのを、ここで大人しく待つ気などなかった。もう一歩、前へ。凍りついた目で告げる。
「どいて」
ボディーガードたちは彼女の前に立ちはだかり、びくともしない。まるで風も通さない壁。そのうちの一人が無表情のまま言った。
「藤井さん、どうか私どもを困らせないでください。こちらも命令で動いております」
怒りで頭がずきずきする。心海は大きく息を吸い、横に立つ藤井父と藤井母へ視線を向けた。腕の傷口からはさっきもだいぶ血が出たせいで、目の奥がぐらりと揺れる。ここで倒れたら、それこそ相手の思う壺だ。まずは何か口に入れて、少しでも体力を戻さないと。
「家に、何か食べるものある?」
藤井父は彼女の手に巻かれた血染めのガーゼを見て、言いかけた。だがその瞬間、藤井母が先に吐き捨てる。
「ないわ。何もない」
藤井父は訳がわからないという顔で、藤井母の腕を押さえ、目で問いかけた。藤井母は苛立ったように睨み返す。――娘を傷つけたくせに、飯まで食うつもり? そう言いたげに。
藤井父は肩を落とし、諦めたようにため息をつくと、何も言わず階段を上がっていった。藤井母もそれに続く。
「……はぁ」
心海はこめかみを押さえ、疲れた指でぐり、と揉む。だったら、少し眠ろう。目が覚めて、息が整ってから戦えばいい。
深夜。心海はソファの上で小さく丸くなり、浅い眠りに落ちていた。
カチャリ。
玄関の鍵が開く音。夜の冷気を纏った誰かが入り、何も言わず隣のソファに腰を下ろす。
沈み込む感触に、心海は半分だけ意識を引き上げた。霞む視界の中で見えたのは、いつの間に戻ってきたのか――酒井蒼真。無表情のまま、こちらを見下ろしている。
「起きたか」
しゃがれた声。疲れが滲んでいる。
「起きたなら、行くぞ」
寝起きの頭が状況を追いつけない。心海は眉を寄せた。
「行くって……どこ」
「愛美に謝りに決まってるだろ」
酒井蒼真は息を吐き、いきなり心海の手首を掴んだ。ぐい、と力任せに引きずり下ろされる。
「……っ」
抵抗する暇すらない。薄い服のまま、よろめきながら外へ連れて行かれる。
「待って!」
手首を握り潰すような力。痛みで眉間が歪み、止血したはずの傷口がまたじわりと滲んだ。
「待ってってば!」
我慢の糸が切れる。心海はもう片方の手で酒井蒼真の腕を掴み、力いっぱい振り払った。
ようやく自由になり、心海は手首を押さえながら睨みつける。
「何がしたいの」
積もりに積もった怒りが噴き出し、声が冷たくなる。
酒井蒼真は当然のように言い放つ。
「病院に行って愛美に謝れ」
「謝る?」
心海は乾いた笑いを漏らし、痛む手首をくるりと回した。
「絶対に無理。あんなクズに頭を下げるくらいなら死んだほうがマシ。夢でも見てな」
酒井蒼真の顔が歪む。低く、苛立ちを噛み殺した声で怒鳴った。
「心海! 愛美はお前のせいで発作を起こした。飛び降りるって騒いでるんだぞ。人の命の話だ。いつまで子どもみたいに意地張ってる」
諭すような言葉なのに、目は責める色でいっぱいだった。まるで悪いのは本当に心海だと言わんばかりに。
酒井蒼真は再び手を伸ばし、心海の手首をきつく掴む。大きな影が覆いかぶさり、息が詰まる。
「もし愛美に何かあったら……」
声音は冷え、脅しの刃が覗く。
――笑える。
酒井蒼真が誰かを庇う姿なんて、どれほど久しぶりだろう。しかも相手が藤井愛美だなんて。
心海の胸の底で、冷笑が渦を巻く。
「離婚したいんでしょ」
心海は先に言い切り、真っ直ぐ彼の目を見た。
「私もよ。むしろ、そうしてほしいくらい」
酒井蒼真は目を見開く。次の瞬間、底知れぬ怒りが炎となって迸った。
「俺と離婚するだと?」
逆鱗に触れられた獣みたいに、声が荒れる。
「……お前、実の父親を生かしておきたいんじゃないのか!」
心海の全身から血の気が引いた。
藤井家が藤井愛美を取り戻してから、心海は居場所のない存在になった。そんな彼女を放っておけないと、酒井蒼真が奔走して実父の行方を探し当て、認知の手続きまで整えてくれたのだ。
その実父だけが、今の心海にとって唯一、優しさを向けてくれる家族だった。事情を知ってからはずっと負い目を抱え、黙って気にかけてくれた。心海は長いこと、ようやく手に入れた「家」の温度の中で生きられた。
だが半年前、実父は交通事故で昏睡状態に陥った。命を繋いでいるのは、酒井蒼真が手配している特効薬。
高価で入手も難しいと知り、心海が申し訳なさでいっぱいになった時。酒井蒼真は抱き締めて言った。
『君の家族は俺の家族だ。いくらかかっても惜しくない』
それが今――その口で、彼は心海の急所を握り、心臓にいちばん深い刃を突き立ててくる。
胸の鈍い痛みで息が詰まりそうになる。だが酒井蒼真は、それを「揺らいだ」と勘違いしたのだろう。彼の目が光った。
「離婚したら、薬はどうする。何で親父に薬を回す」
言外にあるのは、脅迫だ。
――言うことを聞かなきゃ、止める。
「いいよ」
心海は鼻で笑い、見下すように言う。
「父の薬は、あなたに心配されなくても何とかする」
父を人質にする?
酒井蒼真、あんた……本当に最低。
でも、怖くない。断つなら断てばいい。自分の力で、父を救う。
心海の反応は、酒井蒼真の想定を外れていた。何かがじわじわと制御の外へ滑り落ちていく。酒井蒼真の眉間が深く刻まれる。
「……今、何て言った」
心海はもう、この男を見たくない。ここにいるだけで息が苦しい。
酒井蒼真は追いすがり、手首を掴もうとする。
「心海、はっきり言え!」
心海は振り払い、薄い笑みを浮かべた。
「私、間違ってた。酒井蒼真」
息を吸う。言葉が喉を通るたび、刃になる。
「私が一生でいちばん愚かで、いちばん間違えたことは――あなたを愛したこと」
酒井蒼真の体が、ぴたりと固まった。怒りが消え、代わりに見たことのない動揺が顔を覆う。口を開いても、声が出ない。
心海はその姿すら、滑稽で、哀れだった。
傷口が疼く。心海はゆっくり、だが揺るがず告げる。
「もういい。私たち、演じるのは終わり。三年、十分」
「二人とも、願いを叶えてあげるわ」
彼女は一言ずつ、はっきりとそう告げた。
「藤井愛美が欲しいなら、くれてやる。好きに生きればいい。私たちの離婚は決まった」
言い捨てて、背筋を伸ばして歩き出す。もう二度と、振り返らない。
酒井蒼真は眉を寄せ、胸の奥に恐怖が広がっていくのを感じた。心海は拗ねているだけだ――そう思いたかったのに、あの目は違う。決意の重さが、鈍い槌みたいに心臓を叩き続ける。
そして彼は、ほとんど本能のままに追いかけた。
