第2章
龍二は静かに私たちを見ていた。その深い瞳には、私には読み取れない感情が揺らめいている。
「千鶴」
不意に、彼はどこか確信のない声で口を開いた。
「もし私が、お前にひどいことをしたとしたら……」
「ひどいこと、ですか?」
私は努めて戸惑った、無垢な声色を作った。「何をおっしゃっているんですか? さっぱり分かりません」
龍二は私を凝視する。まるで心の中まで見透かそうとするかのように。
その慣れ親しんだ圧迫感に、息が詰まりそうになる。私は無意識に直次の隣へと身を寄せた。
「……いや、何でもない」
龍二はついに視線を外し、「邪魔をしたな」と言った。
ホッと息をつき、私は急いで直次の手を引く。
「早く行きましょう。少し疲れました」
直次は穏やかに頷き、私を抱き寄せるようにして足早にその場を離れた。
龍神会の本部の門を出て、ようやく私は振り返ることができた。
龍二はまだそこに立っていて、その背中はひどく寂しげに見えた。
「ふぅ——」
屋上の夜風が、私の内の火照りを吹き払っていく。
直次は屋上への扉に鍵をかけながら、心配そうな眼差しを私に向けた。
「千鶴、大丈夫か」
私は苦笑して首を振る。
「ええ、大丈夫です。ただ、彼が急に現れるとは思わなくて」
「お前のことをかなり気にしているようだな」
直次は眉をひそめて分析する。
「龍神会のナンバー2が事業転換に異議を唱えるとなると……」
「それはないわ」
私は彼の言葉を遮った。
「父がもう転換の方向性を決めたもの。龍二が父の意に背くはずがない」
「それならいいが」
直次は何かを考えるように頷いた。
「だが千鶴、もし気分が悪いようなら、協力の仕方を変えることもできる。今回の事業転換は神龍会にとって重要だ。私的な恨みで大局に影響が出るのは避けたい」
私は彼に感謝の視線を送った。
直次は確かに頼れるビジネスパートナーだ。五年も前に父が彼の能力に目をつけ、今回の神龍会の合法化への転換は、全て彼の企画立案によるものだった。
「ありがとう、直次。今夜の公演はとても成功したわ」
私は心から言った。
「今夜の効果があれば、もっと多くのパートナーが私たちとの真っ当なビジネスに乗り気になってくれるはずよ」
「当然のことをしたまでだ」
直次はネクタイを整え
「そうだ、そのスーツ、まだ君が持っているな。私が代わりに返してこよう」
私は龍二の上着を脱いで直次に渡した。
そこにはまだ、彼の独特なオーデコロンの香りが残っていて、胸が締め付けられる。
「……お願い」
直次は上着を受け取ると、プロフェッショナルな口調で言った。
「気にするな。鶴ちゃん、心配するな。私がずっとそばにいる」
屋上から降りた後、私はまっすぐ駐車場へと向かった。
今夜の仕事はもう十分疲れた。早く家に帰ってシャワーを浴びて、ぐっすり眠りたい。
だが、廊下の角を曲がった時、見慣れた人影が再び私の前に現れた。
龍二が壁に寄りかかり、誰かを待っているかのようだ。
心臓が速鐘を打つ。踵を返して立ち去ろうとしたが、もう遅かった。
彼が私に気づいた。
「奇遇だな」
龍二はゆっくりと私に歩み寄る。
「お前の婚約者は?」
「物を返しに行っています」
私は平静を装って答えた。
龍二は頷くと、スマートフォンを取り出し、何かを探しているようだった。
ふと彼の画面に目をやった私は、一瞬にして固まった。
それは私の写真だった。どうやら……カルテ?
なぜ彼が私のカルテの写真を?
龍二はの視線に気づき、素早くスマートフォンをしまった。
「スーツを取りに来た」
「ああ」
私はできるだけさりげない声で答える。
「それなら人違いです。直次に返してもらうよう頼みましたから」
「知っている」
龍二は一歩近づく。
「それは口実に過ぎん」
口実?
心の中で警報が鳴り響き、私は無意識に後ずさった。
「何を避けている?」
龍二の声は危険な色気を帯びる。
「本当に記憶を失くしたのなら、なぜ私を避ける?」
「さ、避けてなんかいません……」
「そうか?」
その言葉が終わるや否や、私は彼の力強い腕で、隣の薄暗い個室へと押し込まれた。
バンッ——。
扉が重々しく閉められ、龍二は私をドアに縫い付ける。
薄暗い光の中、彼の顔が間近に迫り、その深い瞳が私を飲み込まんばかりに見つめていた。
「龍二、何をするの!?」
私は恐ろしさのあまり彼を押し返そうとした。
だが彼は、私に逃れる隙を一切与えず、その熱い唇が瞬く間に私の唇を塞いだ。
馴染みのある匂い、馴染みのある感触。
私の理性が一瞬で崩れ落ちる。
「やめて……やめろ!」
必死にもがくが、彼の力はあまりに強い。
彼の手が私の服の中に侵入し、灼けるような掌が肌に触れる。
屈辱感が一気にこみ上げてきた。
なぜ? なぜ彼はこんなことができるの?
かつて愛していたというだけで、彼は好き勝手していいとでもいうのか?
「離せ!」
私はありったけの力で彼を突き放した。
龍二はようやく拘束を解いたが、それでも私を彼とドアの間に閉じ込めたままだ。
彼は私を凝視する。その瞳には苦痛と、疑いと、そして私には読み取れない一抹の絶望が宿っていた。
「千鶴」
彼の声は掠れていた。
「もう芝居はやめろ」
私の心臓が止まりそうになった。
「どういう意味?」
「さっきのお前の反応」
龍二は私の頬を優しく撫でる。
「一ヶ月前と全く同じだった。記憶を失くした人間に、身体の記憶なんてあるのか?」
私は凍りついた。
「お前は私が唇の珠を噛むのが好きなことを覚えている。私の体温も、私を拒む仕草も……」
龍二の眼光がますます鋭くなる。
「教えろ、千鶴」
「ただ一人、私だけを忘れたのか?」
