第4章
私は足取りが焦っていないように見せかけながら、駐車場へと急いだ。
直次のビジネスカーは入り口のすぐそばに停まっており、彼は車のドアに寄りかかって私を待っていた。そのすらりとした姿は、街灯の下で格別の安心感を与えてくれる。
「千鶴」
彼は穏やかに歩み寄り、私の顔を一瞬見つめてから言った。
「お疲れ様」
私は頷き、口を開こうとしたが、彼は突然眉をひそめた。
「口紅が……」
直次はスーツの内ポケットからハンカチを取り出した。
「少し、滲んでる」
心臓が瞬時に跳ね上がり、慌てて手を伸ばして拭おうとしたが、その手首を彼に優しく制された。
「焦らないで。私がやる」
直次の動きはとても優しく、ゆっくりとしていて、まるで何か貴重な芸術品を扱っているかのようだった。
彼の指先がハンカチ越しに私の唇の端を軽く撫でる。そこにはまだ、龍二が残した痕跡があった。
「よし」
彼はハンカチをしまい、何事もなかったかのように言った。
「車に乗って。外は風が強い」
車内は暖かく、ほのかなラベンダーの香りが私の張り詰めていた神経を少しだけ和らげてくれた。
直次がエンジンをかけると、その横顔が計器盤の光に照らされて、ことさらに穏やかに見えた。
「今夜の商談は成功だ。大手三社が明確に提携の意向を示してくれた」
私は声がプロフェッショナルに聞こえるよう努めた。
「組織の転換は、進捗いかがですか?」
「予想より順調だ」
直次は赤信号で車を停め、こちらを向いた。
「山本グループの代表が、我々の合法化プランに強い興味を示してくれてね。資金援助も申し出てくれた」
「では、龍神会の他の幹部の方々の態度は?」
直次は私の声に含まれた緊張に気づいたのか、私の手の甲を軽く叩いた。
「ほとんどは、君のお父上の決定を支持している。ただ……」
「ただ、何です?」
「龍二が今夜、会場に現れなかった」
直次は眉をひそめる。
「本来なら、このレベルの商談に、彼がいないのはおかしい」
私の心は、ずしりと沈んだ。
確かに龍二はいるべきだった。彼は龍神会のナンバーツーであり、今回の転換プロジェクトの主要な実行者の一人なのだから。
「何か、他の用事でもあったんでしょう」
私は声が何気なく聞こえるよう努めた。
直次は私をじっと見つめたが、それ以上は追及しなかった。
車はゆっくりと神崎家の私有地へと入り、直次は慣れた手つきで本館の前に車を停めた。
「千鶴」
彼は不意に私を呼び止めた。
「疲れたか?」
私は首を横に振った。
「大丈夫です」
「なら、書斎に付き合ってくれないか? 契約の細部について、君と確認したいことがあるんだ」
書斎では、直次がノートパソコンを開き、その青い光が彼の集中した横顔を照らし出していた。
「これが山本グループから提示された提携条項で……」
その時、私のスマホが鳴った。
龍二からのメッセージだ。
『転換プロジェクトの一部の契約条項に問題がある。君自ら確認が必要だ。明日の午前九時、俺のオフィスで』
私は眉をひそめた。どうしてこんな業務連絡を私に? 普通なら父か直次に送るべき内容だ。
直次が私の表情に気づく。
「どうした?」
私は彼にスマホを手渡した。
メッセージを読み終えた直次の眼差しが、どこか深みを帯びたものに変わる。
「この契約は昨日審査したばかりだ。問題などないはずだが」
『申し訳ありません、あなたがどの部署を担当されているか失念してしまいました。具体的にどの契約でしょうか?』
私はわざと記憶喪失のふりをして返信した。
すぐに龍二から返事が来た。
『龍神会副会長、事業転換担当だ。そんなこと、以前はよく知っていたはずだが』
『でしたら、その契約は父か三隅さんにお渡しください。私は現在、主に渉外を担当しておりますので』
『君にしか決められないこともある』
そのメッセージを見て、私の手は微かに震えた。
直次が静かに言った。
「どうやら、彼は諦めるつもりがないらしい」
「え?」
「仕事は口実だ」
直次はノートパソコンを閉じ、私の隣まで来ると言った。
「千鶴、もし君が困っているなら、彼に関する業務はすべて私が引き継ぐ」
私は彼を見上げた。その穏やかな瞳には、今まで見たことのない真剣さが宿っていた。
「直次さん……」
「私たちの婚約が、少し唐突だったことは分かっている」
彼は私の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「だが、少なくとも私にとって、これは単なる政略結婚ではないと知っていてほしい」
私の心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「五年前に初めて君に会った時から、私は……」
直次は一瞬言葉を止め
「ただ、あの時、君にはもう好きな人がいたからな」
五年前?
あの頃の私は龍二を夢中で追いかけていて、目には彼しか映っていなかった。
「今回の転換プロジェクトに、私が自ら参加を申し出たのは、一つは神崎家の発展のため、そしてもう一つは……」
彼の声がとても小さくなる。
「君の、そばにいたかったからだ」
私は呆然と彼を見つめていた。
「だから千鶴、君が別れていなかったら、私の番はまだ回ってこなかったんだ」
直次の言葉は、温かい春風のように、私の心の傷を撫でて平らにしてくれた。
またスマホが鳴った。
『忘れたならそれでもいい。また始められる。少なくとも今度は、真剣に向き合う』
私はそのメッセージを見つめ、胸の中に様々な感情が渦巻いた。
真剣に向き合う?
五年の青春では、まだ足りなかったというのだろうか。
