第2章
そう言い捨てて、古川朱那は踵を返した。
「おまえ……」
古川礼和は目つきを沈め、呼び止めて叱りつけるつもりだった。だがなぜか、遠ざかる背中がひどく侘しく見えて、言葉が喉に詰まる。
――今までの朱那なら、少しでも理不尽をぶつけられれば、必ず噛みついてでも正しさを求めたはずだ。
今日は、どうした?
「お兄ちゃん……私、また何か悪いことしちゃった?」
周防天華が恐る恐る口を開く。
「私、ただ誕生日の宴を一日延ばして、明日の私の誕生日と一緒にやりたかっただけなの。仲良くしたかったのに、お姉ちゃんを怒らせちゃった……だったら明日、私の誕生日、やめようかな」
その言葉に、古川礼和の胸がふっと緩む。
「心配するな。おまえの誕生日はちゃんとやる」
やるどころか、盛大にだ。
全員を招いて、古川家が周防天華をどれほど大事にしているか、嫌というほど見せつけてやる。
「ありがとう、兄貴。みんながいてくれて、私ほんと幸せ」
周防天華は笑って古川礼和の腕に絡みつき、目を細めた。
――明日は、もう一本「大きな芝居」がある。
夜が更ける。
古川朱那は部屋で長い間考え、前世と今世の記憶を一つずつ整理した。
前世のこの時点で、彼女は蛇の恐怖で心をやられ、全身に蕁麻疹まで出て、眠ることすらまともにできなかった。
そして翌日、周防天華の誕生日。
父や兄たちが朱那に贈っていた高価な品は、「詫び」の名目で古川礼和に奪われ、周防天華へ渡された。
拒めばケチだと罵られ、部屋へ押し戻される。
その夜、礼和の飼い蛇が部屋に入り込み、朱那は嘔吐し、悲鳴を上げ、下の客を騒がせた。
それ以来、帝都では朱那は「おかしな娘」と笑われ、古川家の嫌悪は加速し、居場所が消えていった。
同じ轍は踏まない。
それどころか――周防天華に「贈り物」を返してやる。
朱那は灯りを落とし、横向きに寝て待った。
深夜0時を回ったころ、かすかな足音が入ってくる。
誰かがそっとクローゼットを開け、しばらくして忍び足で去っていった。
ドアが閉まったのを確かめてから、朱那は暗闇の中で起き上がり、クローゼットを開いた。
黒い粉末の小包。親指ほどの大きさだ。
匂いを嗅いだ瞬間、独特の生臭さが鼻を刺し、吐き気が込み上げる。
――蛇を誘う薬粉。
前世に襲われた原因、そのものだった。
周防天華がうっかり口を滑らせるまで、朱那は真実を知らずにいた。
朱那は少し考えてから、それをいったんしまい込んだ。
翌朝。
別荘中の使用人が周防天華の誕生日会で慌ただしく動く中、朱那は隙を見て、その粉末を周防天華のドレッサーの引き出しへ忍ばせた。
そして手を払うようにして、自室へ戻る。
正午。
客が続々と到着し、宴が始まる。
メイドがドアを叩き、降りるよう促した。
朱那は軽く化粧をし、淡い黄色のワンピースを身につける。
鏡の中の幼さの残る頬が、ふっと笑った。
生き直しの機会なんて、誰にでも転がっているものじゃない。
なら、味わって生きる。自分のために。
――そう思ったはずなのに。
振り返った朱那は、昂価なダイヤのティアラ、イヤリング、サファイアのネックレス、翡翠のバングル、指輪……ありったけを身につけた。
成金そのものの装いで。
部屋を出ると、メイドが目を丸くし、何か言いかけて飲み込んだ。
朱那は気にせず、そのまま階段を降りる。
誰かが息を呑み、視線が一斉に刺さる。
「古川家のお嬢さんって、噂と違うわね……派手すぎない?」
「アクセサリー初めて見たみたい」
「正気? 誰があんな格好させたの」
「お姉ちゃん、何してるの……恥をかかせたいの?」
ざわめきが膨らむ。
それでも朱那は平然と、古川家の男たちの刺すような視線すら無視して、周防天華の前まで歩いた。
「お誕生日おめでとう、周防嬢」
前世は今日から、朱那の地獄が始まった。
どれほどへりくだっても、誰もが周防天華の味方だった。
父は「天華のほうが俺の娘らしい」とまで言った。
今世は、くだらない「家族」なんて信じない。
「ありがとう、お姉ちゃん」
周防天華は朱那の身につけた宝の山に目を奪われ、嫉妬で瞳が濁る。だが表情は崩さず、そっと囁いた。
「お姉ちゃんが私を嫌うのは、私が姑父さんやお兄ちゃんたちを奪うって思ってるからでしょ。安心して。奪わないよ。私は親もいない外姓だし、絶対にお姉ちゃんには勝てないから」
目尻が赤くなり、いかにも傷ついたふり。
朱那は内心で白目を剥いた。
(……吐き気がする)
「天華、変なこと言うな。おまえは永遠に家族だ」
古川礼和がすぐ慰める。
隣の次男、古川礼希も頷いた。
「そうだ。俺たちは家族だ。おまえは俺たちの妹だよ」
礼希は古川グループの広報部長で、礼和の部下。
口が上手く、立ち回りだけは抜群だった。
礼和みたいに真正面から殴るんじゃない。遠回しに傷つけ、あとで甘い飴を差し出す。
朱那が一番期待して――そして一番深く裏切られた男。
礼希は天華を宥めたあと、朱那へ笑いかける。
「朱那、そうだろ? 俺たち、家族だよな?」
朱那は冷えた目で頷いた。
「もちろん」
礼希はその淡さに一瞬詰まり、それでも続ける。
「じゃあ姉として、天華にプレゼントを用意してるよな? 天華も一昨日、おまえに用意してくれたんだぞ」
数百円のカードが「プレゼント」?
朱那は笑いそうになる。
「そうだぞ」
礼和も言った。
「天華はもう責めないって言ってるんだ。おまえも誠意を見せて詫びろ」
朱那は鼻で笑った。
「おっしゃる通り。詫びるべきね」
そう言うと、頭のティアラから身につけた宝飾を次々と外し、ローテーブルの上に並べていく。
「全部、あなたたちが私にくれたもの。私にとって大事だった。詫びの品として一番ふさわしいでしょ」
かつては命みたいに大切にした宝。
今は、見るだけで胸がむかつく。
どうせ渡さなくても奪われる。なら自分から投げ捨てたほうがいい。
礼和も礼希も言葉を失った。
これが朱那の「一番大事なもの」だと、誰より分かっている。
普段は金庫で管理し、天華が見たいと言っても許さなかったのに。
――それを、今日、差し出す?
「朱那……どういうつもりだ?」
礼希が眉を寄せる。
「礼希兄さん、これが私の謝罪の誠意。まだ足りない?」
朱那の瞳は凪いでいた。
礼希は奥歯を噛み、黙り込む。
周防天華は宝飾を凝視し、驚きと困惑に目を瞬かせた。
(こんな高価なものを、あの女が簡単に吐き出す? ……罠?)
