第1章

「ねぇ、お母さん。お寿司が食べたいな」

遊園地からの帰り道。後部座席に座る幼い息子、藤井悠真がはしゃいだ声で言った。

「あら、いいわね」

美月は微笑み、車のパワーウィンドウのスイッチに指を伸ばす。心地よい初夏の風が車内に流れ込んできた。

丸一日遊んだせいで、家族みんな、少しだけ疲れている。けれど、五歳になる息子のきらきらと輝く瞳を見ていると、その疲れさえも愛おしく思えた。

──その、時だった。

不意に、耳につけたワイヤレスイヤホンから、どこか懐かしい電子音が響く。

『美月さん、お久しぶりです』

その声に、美月の指が凍りついた。

相手もどこか気まずいのだろう。声色には、躊躇いが滲んでいる。

『七年前のあの任務、覚えていらっしゃいますか?』

システム、と名乗ったそれは、緊張を隠せない声で続けた。

『任務が中断された後、神谷亮の精神状態が悪化の一途を辿っています。

それに伴い、彼の……ひいては、あなたの息子さんでもあった神谷悠太もまた、道を踏み外しつつあるのです。そのため、緊急処理プロトコルが発動しました』

『美月さん、どうか……彼らに、会っていただけませんか?』

ずくん、と心臓が重く沈む。封じ込めていたはずの記憶が、堰を切ったように溢れ出した。

七年前。医師から余命三年にも満たないと宣告されたあの日、彼女の世界は音を立てて崩れ落ちた。

絶望に打ちひしがれていた夜、〝システム〟は現れた。そして、ある小説の世界へと彼女を誘ったのだ。

『あなたの任務は、作中の悪役である神谷亮を攻略し、彼が嫉妬心から闇に堕ちるのを防ぐことです。任務を完遂すれば、あなたは無事に元の世界へ帰還し、健康な身体を手に入れることができます。あるいは、小説の世界に留まり、彼と添い遂げるという選択も可能です』

当時の彼女にとって、それは抗いがたいほど魅力的な提案であり、人生の新たな始まりそのものだった。

小説の世界で、美月はインディーズのミュージシャンになった。そのひたむきさと音楽の才能で、冷徹な完璧主義者である神谷亮の心を、少しずつ溶かしていった。

天才シンガー、北川桜に振られ、失意の底にいた彼に寄り添い、支え続けた。

そして、ある徹夜明けのレコーディングの後、二人は過ちを犯した。美月は、予期せず彼の子供を身籠もった。

『今、結婚するのは互いのキャリアにとって得策じゃない』

当時の神谷亮は、あくまで冷静にそう告げた。

『先に子供を産んでくれ。時期が来たら、必ず関係を公表する』

心のどこかで寂しさを感じながらも、美月はその提案を受け入れた。

やがて、息子の神谷悠太が生まれた。その小さな男の子は、すぐに音楽に関して驚くべき才能の片鱗を見せ始める。

一歳にして、様々な楽器の音色を正確に聴き分けた。

三歳になる頃には、簡単なピアノ曲を弾きこなした。

神谷家はそんな悠太を至宝のように扱い、頻繁に本家へと呼び寄せては、英才教育を施した。

だが、悠太は成長するにつれて、傲慢な一面を見せるようになっていく。

『僕とあんな凡人たちを一緒にしないでよ。僕は天才なんだ。あいつらが僕と同じように学べるわけないじゃないか。それに、僕は将来、星辰グループを継ぐんだ。偉そうにしたって当然だろ』

まだ六歳になったばかりの悠太は、かつてそう言い放った。

美月は彼を厳しく叱った。そんな態度は許されない、もっと謙虚になりなさい、と。

悠太はただ悲しそうに泣きじゃくるばかり。神谷亮が共に諭してくれることを期待したが、彼は何も言わず、ただ悠太を本家に連れ帰り、より専門的な音楽教育を受けさせるべきだと主張するだけだった。

数ヶ月後。息子に会いたくてたまらなくなった美月は、遊園地に連れて行こうと神谷家の本家を訪れた。

そこで彼女が見たのは──ピアノの前に座る悠太と、その傍らで彼の演奏に喝采を送る神谷亮、そして北川桜の姿だった。

三人が織りなす光景は、まるで本当の家族であるかのように、完璧な調和を見せていた。

『桜さん、お父さんと付き合っちゃいなよ!お母さん、なんにもできないし、僕のこと叱ってばっかりなんだ』

悠太は、無邪気で、残酷な言葉を口にした。

『お爺様もお婆様も言ってたよ。お母さんには本当の音楽の伝統なんて分かりっこないって。それに、お父さんだって、桜さんの才能のほうを認めてるじゃないか』

息子がそんな言葉を口にしても、神谷亮はただ黙ってピアノの鍵盤を見つめるだけで、何一つ反論しなかった。

北川桜は、くすりと悪戯っぽく笑みを漏らし、他に理由はないの?と優しく尋ねる。

『僕はただ、桜さんが好きで、お母さんが嫌いなだけ』

その夜、美月は東京音楽区のマンションへ独りで帰った。

窓辺に佇み、街の灯りを眺めていると、ふと、すべてがどうしようもなく無意味に思えた。

悪役である彼を攻略し、自分を好きにさせることができると、愚かにも信じていた。だが現実は、彼が愛しているのは今も昔も物語のヒロインなのだと、冷ややかに突きつけてくる。

自分が産んだ子供でさえ、そのヒロインに懐いてしまう始末。

音楽の夢も、健康な身体も、もうどうでもよかった。ただ、元の世界に戻って、普通の人間になりたかった。

『この任務を放棄します。現実世界に戻してください』

彼女はシステムにそう告げた。

『美月、これはまたとない機会です。どうかもう一度お考え直しください。たとえ彼があなたと結婚せずとも、彼が他の誰とも結ばれない限り、あなたはここに留まり、健康な身体を享受し続けられるのですよ』

『もう、決めたんです』

美月は力なく笑った。北川桜が帰ってきたのだ。神谷亮が彼女と結婚しないわけがない。

彼らが結ばれる日を、この世界で見届けてから去る必要などない。

『……承知いたしました。ですが、これほど困難な任務を遂行されたあなたです。追加の権限を申請できるか、確認させてください』

システムは、なおも粘り強く彼女を気遣った。

最終的に、システムは特例措置の許可を取り付けた。自身の任務ポイントを消費して美月のために健康な身体を〝購入〟し、彼女を小説の世界に来る前の時間軸へと帰還させたのだ。

美月は深く感謝し、そんなことをしてシステムに影響はないのかと尋ねた。

『美月はお優しい方です。ですから、あなたもまた、優しく扱われるべきなのです。もし本当に申し訳ないとお思いでしたら、将来、もし機会がありましたら、その時はどうかお力添えを』

それは、システムの社交辞令に過ぎなかった。本心では、二度と会うことがないよう願っていた。それが、美月が幸せに暮らしている何よりの証拠になるのだから。

あれから、七年。

美月は、今ではそこそこの知名度を持つ音楽プロデューサーになった。同業者である藤井大介と恋に落ちて結婚し、藤井悠真という、愛しい息子にも恵まれた。

あの世界のことは、もう自分とは無関係なのだと、いつしか本気でそう思えるようになっていた。

──この瞬間まで。システムが、再び現れるまでは。

『美月』

システムの馴染み深い声が、彼女を現実に引き戻す。

『神谷悠太が、あなたを必要としています』

美月はスマートフォンを強く握りしめた。車窓の外を猛スピードで過ぎ去っていく景色から、目が離せない。

心の内で、巨大な波瀾が渦を巻いていた。

本当に、彼らに会いにいくべきなのだろうか?

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