逆光の時空へ、母と子の救済ソナタ

逆光の時空へ、母と子の救済ソナタ

渡り雨 · 完結 · 25.2k 文字

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紹介

七年前、重い病を患っていた安田美月は、謎の【システム】に選ばれ、異世界へと旅立った。課せられた任務は、神谷亮という男性を「攻略」すること。彼との間に一人の息子を授かるも、任務は失敗に終わり、彼女は現実世界へと帰還。そして、現在の夫と巡り会った。

しかし今、平穏な日々は突如として終わりを告げる。【システム】が「異世界の息子、神谷悠太の黒化値が臨界点に達しつつある」という警告と共に、転送プログラムを再起動させたのだ。美月は、現実世界の幼い息子を連れて、崩壊した運命の軌道へと再び足を踏み入れることを余儀なくされる。

銀座の高級マンションの一室。十三歳になった天才ピアニストは、母の古い写真を金庫にしまい込む。だが、深夜になると決まって、『Mother's Lullaby』と名付けられた暗号化された音源を、独り繰り返し再生していた。

桜舞う駅のホームで、二つの世界の影が重なり合う瞬間。美月は二枚の写真を手に、選択を迫られていた。――左手には、無条件に自分を信じてくれる現在の夫と息子。右手には、救済を待つ、砕け散った魂。

システムの冷たい通知音が響く中、黒化値測定器の赤い光が、突如として激しく点滅し、数値を急上昇させる!

「今度は、もう逃げない」

彼女は現実の息子・悠真の首にお守りを結び、その指先は、譜面台に置かれた未完成の楽譜へと、そっと触れた。

チャプター 1

「ねぇ、お母さん。お寿司が食べたいな」

 遊園地からの帰り道。後部座席に座る幼い息子、藤井悠真がはしゃいだ声で言った。

「あら、いいわね」

 美月は微笑み、車のパワーウィンドウのスイッチに指を伸ばす。心地よい初夏の風が車内に流れ込んできた。

 丸一日遊んだせいで、家族みんな、少しだけ疲れている。けれど、五歳になる息子のきらきらと輝く瞳を見ていると、その疲れさえも愛おしく思えた。

 ──その、時だった。

 不意に、耳につけたワイヤレスイヤホンから、どこか懐かしい電子音が響く。

『美月さん、お久しぶりです』

 その声に、美月の指が凍りついた。

 相手もどこか気まずいのだろう。声色には、躊躇いが滲んでいる。

『七年前のあの任務、覚えていらっしゃいますか?』

 システム、と名乗ったそれは、緊張を隠せない声で続けた。

『任務が中断された後、神谷亮の精神状態が悪化の一途を辿っています。

 それに伴い、彼の……ひいては、あなたの息子さんでもあった神谷悠太もまた、道を踏み外しつつあるのです。そのため、緊急処理プロトコルが発動しました』

『美月さん、どうか……彼らに、会っていただけませんか?』

 ずくん、と心臓が重く沈む。封じ込めていたはずの記憶が、堰を切ったように溢れ出した。

 七年前。医師から余命三年にも満たないと宣告されたあの日、彼女の世界は音を立てて崩れ落ちた。

 絶望に打ちひしがれていた夜、〝システム〟は現れた。そして、ある小説の世界へと彼女を誘ったのだ。

『あなたの任務は、作中の悪役である神谷亮を攻略し、彼が嫉妬心から闇に堕ちるのを防ぐことです。任務を完遂すれば、あなたは無事に元の世界へ帰還し、健康な身体を手に入れることができます。あるいは、小説の世界に留まり、彼と添い遂げるという選択も可能です』

 当時の彼女にとって、それは抗いがたいほど魅力的な提案であり、人生の新たな始まりそのものだった。

 小説の世界で、美月はインディーズのミュージシャンになった。そのひたむきさと音楽の才能で、冷徹な完璧主義者である神谷亮の心を、少しずつ溶かしていった。

 天才シンガー、北川桜に振られ、失意の底にいた彼に寄り添い、支え続けた。

 そして、ある徹夜明けのレコーディングの後、二人は過ちを犯した。美月は、予期せず彼の子供を身籠もった。

『今、結婚するのは互いのキャリアにとって得策じゃない』

 当時の神谷亮は、あくまで冷静にそう告げた。

『先に子供を産んでくれ。時期が来たら、必ず関係を公表する』

 心のどこかで寂しさを感じながらも、美月はその提案を受け入れた。

 やがて、息子の神谷悠太が生まれた。その小さな男の子は、すぐに音楽に関して驚くべき才能の片鱗を見せ始める。

 一歳にして、様々な楽器の音色を正確に聴き分けた。

 三歳になる頃には、簡単なピアノ曲を弾きこなした。

 神谷家はそんな悠太を至宝のように扱い、頻繁に本家へと呼び寄せては、英才教育を施した。

 だが、悠太は成長するにつれて、傲慢な一面を見せるようになっていく。

『僕とあんな凡人たちを一緒にしないでよ。僕は天才なんだ。あいつらが僕と同じように学べるわけないじゃないか。それに、僕は将来、星辰グループを継ぐんだ。偉そうにしたって当然だろ』

 まだ六歳になったばかりの悠太は、かつてそう言い放った。

 美月は彼を厳しく叱った。そんな態度は許されない、もっと謙虚になりなさい、と。

 悠太はただ悲しそうに泣きじゃくるばかり。神谷亮が共に諭してくれることを期待したが、彼は何も言わず、ただ悠太を本家に連れ帰り、より専門的な音楽教育を受けさせるべきだと主張するだけだった。

 数ヶ月後。息子に会いたくてたまらなくなった美月は、遊園地に連れて行こうと神谷家の本家を訪れた。

 そこで彼女が見たのは──ピアノの前に座る悠太と、その傍らで彼の演奏に喝采を送る神谷亮、そして北川桜の姿だった。

 三人が織りなす光景は、まるで本当の家族であるかのように、完璧な調和を見せていた。

『桜さん、お父さんと付き合っちゃいなよ!お母さん、なんにもできないし、僕のこと叱ってばっかりなんだ』

 悠太は、無邪気で、残酷な言葉を口にした。

『お爺様もお婆様も言ってたよ。お母さんには本当の音楽の伝統なんて分かりっこないって。それに、お父さんだって、桜さんの才能のほうを認めてるじゃないか』

 息子がそんな言葉を口にしても、神谷亮はただ黙ってピアノの鍵盤を見つめるだけで、何一つ反論しなかった。

 北川桜は、くすりと悪戯っぽく笑みを漏らし、他に理由はないの?と優しく尋ねる。

『僕はただ、桜さんが好きで、お母さんが嫌いなだけ』

 その夜、美月は東京音楽区のマンションへ独りで帰った。

 窓辺に佇み、街の灯りを眺めていると、ふと、すべてがどうしようもなく無意味に思えた。

 悪役である彼を攻略し、自分を好きにさせることができると、愚かにも信じていた。だが現実は、彼が愛しているのは今も昔も物語のヒロインなのだと、冷ややかに突きつけてくる。

 自分が産んだ子供でさえ、そのヒロインに懐いてしまう始末。

 音楽の夢も、健康な身体も、もうどうでもよかった。ただ、元の世界に戻って、普通の人間になりたかった。

『この任務を放棄します。現実世界に戻してください』

 彼女はシステムにそう告げた。

『美月、これはまたとない機会です。どうかもう一度お考え直しください。たとえ彼があなたと結婚せずとも、彼が他の誰とも結ばれない限り、あなたはここに留まり、健康な身体を享受し続けられるのですよ』

『もう、決めたんです』

 美月は力なく笑った。北川桜が帰ってきたのだ。神谷亮が彼女と結婚しないわけがない。

 彼らが結ばれる日を、この世界で見届けてから去る必要などない。

『……承知いたしました。ですが、これほど困難な任務を遂行されたあなたです。追加の権限を申請できるか、確認させてください』

 システムは、なおも粘り強く彼女を気遣った。

 最終的に、システムは特例措置の許可を取り付けた。自身の任務ポイントを消費して美月のために健康な身体を〝購入〟し、彼女を小説の世界に来る前の時間軸へと帰還させたのだ。

 美月は深く感謝し、そんなことをしてシステムに影響はないのかと尋ねた。

『美月はお優しい方です。ですから、あなたもまた、優しく扱われるべきなのです。もし本当に申し訳ないとお思いでしたら、将来、もし機会がありましたら、その時はどうかお力添えを』

 それは、システムの社交辞令に過ぎなかった。本心では、二度と会うことがないよう願っていた。それが、美月が幸せに暮らしている何よりの証拠になるのだから。

 あれから、七年。

 美月は、今ではそこそこの知名度を持つ音楽プロデューサーになった。同業者である藤井大介と恋に落ちて結婚し、藤井悠真という、愛しい息子にも恵まれた。

 あの世界のことは、もう自分とは無関係なのだと、いつしか本気でそう思えるようになっていた。

 ──この瞬間まで。システムが、再び現れるまでは。

『美月』

 システムの馴染み深い声が、彼女を現実に引き戻す。

『神谷悠太が、あなたを必要としています』

 美月はスマートフォンを強く握りしめた。車窓の外を猛スピードで過ぎ去っていく景色から、目が離せない。

 心の内で、巨大な波瀾が渦を巻いていた。

 本当に、彼らに会いにいくべきなのだろうか?

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三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
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