第2章

美月は思わず携帯を強く握りしめた。運転席でハンドルを握る夫に視線を送る。こちらの異変に気づいたのか、藤井大介はバックミラー越しに「どうした?」と問いかけるような視線を返してきた。

「何か急ぎの仕事でも入ったか?」

大介の優しい声に、美月は首を横に振る。

「ううん、何でもないの。ただ、ちょっと嫌なことを思い出してしまって」

彼女は窓の外に目をやった。猛スピードで流れ去っていく東京郊外の景色を眺めながらも、心の中では抑えきれない感情が渦巻いていた。

『美月さん、神谷悠太が間もなく全国青少年音楽コンクールに出場します。これは彼が心の闇を克服し、黒化を避けるための重要な転機です。しかし、彼の精神状態は現在非常に不安定で、すでに三日連続で学校を休んでいます。どうか、彼の力になっていただけないでしょうか』

再び、脳内にシステムの無機質な音声が響く。

「悠太が、どうしたって……?」

思わず声が漏れた。はっとして夫と息子の様子を窺う。

「お母さん、誰と話してるの?」

後部座席から、息子の藤井悠真が不思議そうに尋ねてきた。

「ううん、何でもないのよ。お母さんの独り言」

美月は無理に笑顔を作ってごまかした。

システムは淡々と説明を続ける。

『神谷亮と神谷悠太の関係は、あなたが不在になって以降、悪化の一途を辿り、今やほとんど敵対状態にあります』

美月は目を閉じ、込み上げてくる複雑な感情を必死に抑え込んだ。

あの世界を離れて、もう七年。すべて吹っ切れたと思っていたのに、システムの言葉は、彼女の心に奇妙な波紋を広げた。

どうして。

あの世界に私がいない方が、悠太はもっと素直に、神谷亮と北川桜の仲を受け入れられるんじゃないの?

「少し、考えさせてください」

美月は低い声で答えた。

『ご懸念は理解しております』

システムは丁寧な口調で続けた。

『しかし、我々の観測によりますと、神谷悠太の黒化値はすでに六七パーセントに達しています。80パーセントを超えれば、もう手遅れです』

車は都心からほど近い、閑静な住宅街へと入っていく。大介は自宅のガレージ前に車を停めると、美月の方を向いて微笑んだ。

「着いたぞ。寿司を頼んでおくから、先に悠真を連れて入っててくれ」

美月は頷き、息子のシートベルトを外してやる。悠真は待ってましたとばかりに車から飛び降り、ぴょんぴょんと跳ねながら玄関へと走っていった。

「システム」

夫と息子が家の中に入ったのを確認し、美月は庭先で小声で呼びかけた。

「私が今、自分の家庭を持っていることは知っているでしょう」

『はい、美月さん。永久に物語の世界へお戻りいただきたいわけではありません。神谷悠太が音楽コンクールという重要な時期を乗り越えられるよう、一ヶ月だけ、一時的に帰還していただきたいのです』

『滞在期間は、わずか一ヶ月です』

システムはそう繰り返した。

美月はしばし沈黙し、七年前の出来事に思いを馳せた。当時、システムは自らのポイントを消費して、彼女に健康な身体を与えてくれた。そのおかげで、彼女は現実世界に戻り、癌を克服することができたのだ。今の幸せな家庭も、順調なキャリアも、すべてはシステムの助けなくしてはあり得なかった。

この恩を、知らないふりなどできるはずがない。

「大介さんに、相談してみます」

美月は、ようやくそう答えた。

『もちろんです、美月さん。ですが、一つだけ事前にお伝えしなければならないことがあります』

システムの声が、少しだけ改まったものになる。

『神谷悠太は、あなた一人にだけ会いたいと、明確に意思表示しています。もし現実世界のご家族を同行された場合、彼は助けを拒絶する可能性があります』

美月は眉をひそめた。

「家族に黙って家を出るなんて、できません」

『お困りのことと存じます。まずはご家族とご相談の上、ご決断なさることをお勧めします』

システムの口調は、再び落ち着きを取り戻していた。

『二四時間後に、改めてご連絡差し上げます』

システムの音声が途絶える。

美月は深く息を吸い、夜空に輝く星々を見上げた。まだ幼かった頃の悠太と、二人でベランダから星を眺めた日のことを思い出す。星座の見分け方を教えると、彼は目を輝かせていた。あの頃の悠太は、音楽への愛に満ちた、ただの無邪気な子供だった。それなのに、いつからすべてが変わってしまったのだろう。

「美月、寿司、頼んだぞ。二十分くらいで届くそうだ」

玄関に立った大介が声をかけてきた。

「外で何してるんだ?」

「すぐ行くわ」

美月は思考を振り払い、家のドアへと向かった。

暖かいリビングに入ると、悠真はすでに楽な部屋着に着替え、ソファの上でおもちゃのキーボードを弾いていた。母親の姿を見つけると、彼は興奮したように叫んだ。

「お母さん、僕、『きらきら星』弾けるようになったよ!」

美月は微笑んで息子の隣に座り、優しくその髪を撫でた。

「すごいじゃない。お母さんに聞かせてくれる?」

悠真は真剣な顔で鍵盤を押していく。リズムはまだ少しおぼつかないが、メロディーははっきりと聴き取れた。美月の心はふわりと温かくなる。それと同時に、もう一つの世界の息子のことを思い出していた。

「お母さん、どうして泣いてるの?」

演奏を終えた悠真が、不思議そうに母親の顔を覗き込んだ。

そこで初めて、自分の頬を涙が伝っていることに気づく。美月は慌ててそれを拭い、微笑んだ。

「悠真の演奏がとっても上手だったから、お母さん、感動しちゃったの」

いつの間にかそばに来ていた大介が、そっと妻の肩を抱いた。

「どうした?今日はなんだか、ずっと考え事をしているみたいだが」

美月は夫の肩に寄りかかり、囁くように言った。

「大介さん。少し、相談したいことがあるの」

大介は黙って頷くだけで、それ以上は何も聞かなかった。

彼がいつも、自分に十分な時間と理解を与えてくれること。それが、彼女が大介を愛する理由の一つだった。

ほどなくして寿司が届き、家族三人は食卓を囲んだ。目の前の幸せな光景を見つめながらも、美月の頭の中では、システムの言葉と神谷悠太の境遇が繰り返し再生されていた。

二つの世界、二人の息子、そして一つの、あまりにも過酷な選択。

悠真が寝入った後、美月と大介はリビングのソファに並んで腰掛けた。彼女は深く息を吸い込み、自分だけが知る秘密を語り始めた。もう一つの世界のこと、神谷亮と神谷悠太のこと、そしてシステムからの要請について。

すべてを聞き終えた大介は、長い間黙り込んでいたが、やがて静かに口を開いた。

「行きたいのか?」

美月は夫の真摯な瞳を見つめ、静かに頷く。

「システムには借りがあるし、悠太のことも放っておけない。でも、あなたと、私たちの悠真から離れたくはないの」

大介は妻の手を強く握った。先ほどまで穏やかだったその表情が、一瞬、不安に揺らぐ。

「……あの世界に、残ったりはしないよな?」

「するわけないじゃない。あなたと悠真を置いていくなんて、絶対にしないわ。二人は、私が世界で一番愛してる人たちだもの」

大介はほっと息をつき、力強く言った。

「それがお前にとって大事なことなら、俺は反対しない。お前の決断を、支持するよ」

「ありがとう、大介さん」

美月は夫の肩に顔をうずめた。心の重荷が、少しだけ軽くなった気がした。

必ず帰ってくる。自分自身のためだけじゃない。彼女が愛する人たち、そして彼女を愛してくれる人たちのために。

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