第1章
「ゆき」
情が昂ったその瞬間、夫はベッドの上で、別の女の名を呼んだ。
その女は――彼女の双子の妹だった。
小林暁の顔から、さっと血の気が引く。さっきまで燃えていた欲は潮が引くみたいに消え、残ったのは氷みたいな冷たさだけ。
崎原時男の通った鼻梁から汗が一滴落ち、どすんと彼女の胸元に当たった。
熱い息が耳朶をくすぐる。深い瞳は欲に濡れていて――まるで彼女の向こう側、別の誰かを見ているみたいだった。
「ゆき、もう一回」
やさしく縋るような口調。低く艶のある声。抗いがたいほどの誘惑。
小林暁は思う。自分は救いようがない、と。
別の女として抱かれているのに、それでもこの甘い優しさに溺れてしまうなんて。
必死に声を絞り出す。喉はひどく掠れていた。
「だめ……私、これからおじいちゃんの家に行かなきゃ」
崎原時男の眉が寄る。露骨な不機嫌。
「ゆきは俺を拒まない」
――従え。小林ゆきを演じろ。そう言われている。
小林暁は堪えきれずに言った。
「私は小林ゆきじゃない」
けれど崎原時男は気にも留めない。大きな掌が肌を撫で上げ、片脚が彼女の両腿をこじ開けた。
冷たく、嘲るように。
「ゆきは優しくて賢い。お前が同じなわけないだろ」
心臓を握り潰されるみたいに痛い。だが次の瞬間、それ以上の痛みが押し寄せた。崎原時男が彼女の脚を持ち上げ、優しさなどひとかけらもなく乱暴に貫いた。
「お前は代わりだ。ベッドの身代わりとしての分をわきまえろ」
欲張るな、と。
それ以上を望むな、と。
両手首を頭上に押さえつけられ、荒々しく突かれる。さっきまでの甘い情事が嘘みたいに、これは罰だった。
言うことを聞かない罰。支配から逃げようとした罰。
「ゆき……」
耳元でその名が何度も繰り返される。裂けるような感覚は身体だけじゃない。魂まで引き裂かれて、二つに分かれていく。
小林暁という半分と、小林ゆきという半分に。
終わったあと、崎原時男は彼女を抱き寄せて言った。
「偉いな。あとでアシスタントに言って、シャネルの最新作を持ってこさせる」
シャネルは好きじゃない。好きなのは小林ゆきだ。
小林暁の胸に苦さが込み上げる。結婚して何年も経つのに、崎原時男は一度だって彼女の好みを気にしたことがない。
見つめすぎたのか、崎原時男が不機嫌そうに眉をひそめた。
――まずい。
小林暁は慌てて伏し目になる。
瞳だけが、小林ゆきと唯一似ていないところ。
そして崎原時男がいちばん嫌うところ。
「そんな目で見るな」崎原時男の声は氷より冷たい。
「話し方も小林ゆきみたいにもっと柔らかく。服も、あいつの趣味に合わせろ」
小林暁は唇を噛み、苦しげに頷いた。
「……わかった。じゃあ、あとで時間ある? おじいちゃんが、あなたに会いたいって」
心の奥が針で刺されるように痛い。それでも反論できない。
最初に「小林ゆきの代わりになる」と言ったのは自分だ。結婚すれば崎原時男の心を動かせると、愚かに信じた。誰も責められない。
でも祖父は知らない。祖父の目には、二人は理想の夫婦に見えている。失望させたくなかった。
「会わない。手に入らないものを夢見るなって言っただろ」
服を整えた崎原時男は、冷たく彼女を見下ろした。
「腹のある女は見飽きた。小林暁、お前が本物の崎原夫人だと思うなよ。お前は小林ゆきの席を預かってるだけだ」
そう言い残し、崎原時男は情け容赦なく去っていった。
小林暁はかすかに笑って、震える脚でベッドを降り、身支度を整えると一人で祖父の家へ向かった。
――けれど。
家に着いて迎えたのは、優しい祖父ではなく、近所の人が告げた一言だった。
「おじいさん、危篤で病院に運ばれたよ」
慌てて病院へ駆けつけ、医師から告げられる。脳血栓。治すことは難しく、できるのは苦しまずに逝けるようにすることだけ。
病床の祖父は青白く、弱々しい。
小林暁は枯れた細い手を握りしめ、涙が一気に溢れた。
「どうして……? おじいちゃん、ずっと元気だったじゃない。ひ孫を抱くの楽しみだって……なんで急に……」
祖父はやっとのことで目を開け、彼女だと気づくと慈しむように微笑んだ。
「暁……来たのか」
「隠しても……無駄だったな……」
頭を撫でようとして、手が少し上がっただけで落ちる。
小林暁は慌ててその手を取り、自分の頬に当てた。子どもの頃、いじめられた時にこうして慰めてくれたように。
「暁……これからは自分を大事にしなさい。崎原時男と幸せに暮らすんだ。意地を張るんじゃない」
「小林ゆきを恨むな、とも約束してくれ。あれは……わしの選択が間違っていたからだ。あの子が戻ってきたら……」
小林暁は何度も頷き、必死に答えた。
「うん。今日は忙しくて、本当はお見舞いに来るはずで……。小林ゆきのこと、恨まない」
祖父の目尻の涙を拭いながら、胸が張り裂けそうだった。
祖父を安心させたくて、崎原時男が自分を娶った本当の理由は一度も言わなかった。
祖父が望んだ「二人でのお見舞い」すら、崎原時男は無情に拒んだ。
「暁……わしの鞄に玉佩がある。必ず、お前が守りなさい……」
小林暁が鞄から玉佩を取り出した、そのとき。
「小林暁! ゆきが見つかった!」
病室の扉が乱暴に開き、崎原時男が入ってきた。きっちりしたスーツ姿が、病院の空気とひどく不釣り合いだ。
小林暁は固まる。――小林ゆきが、見つかった?
「小林暁」
崎原時男が珍しく柔らかな声で、彼女の名を呼んだ。
小林暁は胸の酸っぱさを押し殺して笑みを作る。
「よかったね。おじいちゃんも、ゆきに会いたがってた」
祖父の前では、いつも通り夫婦仲睦まじく演じてほしかった。
だが崎原時男は容赦なく爆弾を落とす。
「ゆきは病気だ。腎臓の適合が必要になった」
「お前は双子だろ。提供者としていちばん合う」
「……なに?」
小林暁の瞳が縮む。
腎臓を一つ失うことが、どれほどのことか――彼は知っているのか。
崎原時男は問答無用で小林暁の腕を掴み、引きずるように連れて行こうとする。
「崎原時男……暁に何をする気だ!」
祖父が信じられないという顔をした。いつも気遣い深いはずの崎原時男が、こんな非情なことを――。
小林暁は必死に抵抗する。
「だめ! おじいちゃんの世話をしなきゃ……私、提供できない! 他を探して!」
「ゆきは待てない。妹が死ぬのを見殺しにする気か?!」
崎原時男は小林暁を引きずって廊下へ向かう。
「手術はもう手配済みだ。行くしかない!」
「暁!」
祖父が止めようとしてベッドから転げ落ち、床に倒れた。必死に這い上がろうとする。
「暁……わしはずっと言えなかったが、お前は本当は……」
言い終える前に、祖父は呼吸が荒くなり、げほげほと激しく咳き込み、そのまま気を失った。
「おじいちゃん……! 先生、早く! 先生を呼んで!」
小林暁は叫びながら戻ろうとしたが、腕を死ぬほど掴まれて動けない。数メートルが天涯のように遠い。
倒れた祖父を見ながら、小林暁は泣き崩れるように懇願した。
「崎原時男……お願い、先生を呼んで……おじいちゃんを助けて……お願い……!」
崎原時男は眉をわずかに動かしただけで、無表情のままだった。
小林暁は絶望して目を閉じる。
「……わかった。腎臓をあげる! 条件は、おじいちゃんを助けて!」
「いいだろ。言うことを聞くなら、助けさせる」
――言うことを、聞く。
小林暁は笑った。泣き顔より酷い笑い方だった。
冷たい手術台に横たわった瞬間、横一列に並んだ鋭いメスが目に入って、心臓が跳ねた。
もしここで死んだら? 祖父は誰が――。
「崎原時男……私、お願い……」
後悔が喉まで込み上げた。せめて祖父が無事なのを自分の目で確かめたかった。
だが崎原時男は一切取り合わず、医師に開始を命じる。
麻酔が血管に流れ込み、意識がゆっくり薄れていく。頬を涙が伝った。
五年。尽くした五年が、結局は無駄だった。
小林暁は最後の力で言葉を残す。
「崎原時男……もし私が死んだら……おじいちゃんを……お願い……。私が海外に行ったって伝えて……私のこと……気にしないで……」
