第11章
崎原家からの電話が、二人のあいだにかろうじて保たれていた均衡を、一瞬で叩き割った。
崎原時男の顔色が、わずかに曇る。スピーカー越しに、電話口の家政婦はなおも早口で続けた。
「小林さんが奥様のことを心配して、どうしても追いかけるって聞かなくて……気が動転しすぎて、階段でそのまま気を失っちゃいました!」
時男の視線が、自然と小林暁へ向く。
暁は一瞬だけ固まり、それから視線を落として脚を引っ込めた。途中まで巻かれていたガーゼを、黙々と巻き直す。
「医者は来たのか?」
抑えた声。感情がないようでいて、底のほうに重いものが沈んでいる。
「はい。もう連絡してあって、向かってきています」
「……わかった」
通話が切れる。
崎原時男はゆっくり息を吐き、また絵に戻った小林暁を見た。まるで妹のことなど、欠片も気にしていないように。
時男の顔から温度が消える。
「帰るぞ」
暁はペンを握りしめたまま、低く答える。
「私が帰っても、意味ない」
「お前のせいで、あいつは怪我したんだ」
有無を言わせない口調で、時男は暁の腕を掴み、立たせる。
「『私のせい』って何? あの子が言ったこと、全部信じるわけ? あなた――」
言い終える前に、時男が暁の腰を掴んで引き寄せた。強引な力に胸が圧迫され、言葉が喉の奥で潰れる。
「俺が言ってる」
鼻先が触れそうな距離。艶めいた気配など一切なく、ただ怒気だけが迫ってくる。
「……帰る」
一語一語、噛みしめるように。瞳の奥には、押し殺した火が燃えていた。
暁は抵抗の余地がないことを悟る。胸の奥が酸っぱくなり、掠れた声で言った。
「……わかった」
帰り道は渋滞していて、崎原家に着くまで三十分ほどかかった。
「時男……」
主寝室に入った瞬間、奥から小林ゆきの声がした。
暁はわざとゆっくり歩き、寝室へ折れる。すると、ゆきは頭に包帯を巻き、唇の色もないまま横たわっていた。
ベッドのそばには崎原時男。二人の手は固く握り合わされている。
ゆきは暁の姿を視界の端に捉えると、怯えたように手を離し、ぎこちなく笑った。
「小林暁……帰ってきたんだね」
暁も、ゆきがここまで酷いとは思っていなかった。驚きの表情のまま、少しだけ近づく。
「……そんなに、ひどいの?」
思わず漏れた問い。胸の奥に一瞬だけ、心配が差す。
けれど、それは一瞬で消えた。
ゆきに対する感情は、暁の中でいつも絡まっている。双子なのに、幼い頃からゆきは我が儘で、暁はその尻拭いばかりしてきた。そこに時男の存在が絡めば、なおさらだ。愛しいのに、憎い。守りたいのに、うんざりする。
時男は何も言わない。珍しい沈黙。横顔の機嫌は、決して良くはなかった。
――ああ、まただ。
一目でわかる。この顔は、これから自分が罰を受ける顔だ。
ゆきに何かあるたび、責められるのはいつだって暁だった。何年も繰り返されて、もう慣れかけている。
なのに今回は、ゆきが火に油を注ぐ。
額を打ったはずなのに、泣き声だけはやけに大きい。
「ごめんね、暁……朝、私が怒らせたのが悪かった。私のせいで、暁が家を出ることになって……」
――関係ないだろ。
そう言いかけた暁をよそに、ゆきは布団をめくって起き上がろうとする。
「私が戻ってきたのが間違いだった……わ、私、出ていく! 今すぐ――」
めくれた布団の端を、時男が押し戻した。
「寝てろ」
時男の表情は見えない。でも、ゆきの顔ははっきり見える。
涙をにじませながら時男の腕に縋りつき、か細い声で言った。
「ううん、時男……私が悪いの。私なんか、戻ってこなければよかった。いっそ外で死んでたら――」
「縁起でもないこと言うな」
時男はゆきの頬を撫で、それから暁へ顔を向けた。
「こいつは、お前のせいで散々苦労した。謝れ」
暁は即座に拒む。
「……どうして?」
最近、反抗の回数が増えている。それが時男の癇に触れたのだろう、眉間が寄った。
「私のせいで苦労? どこが?」
暁は笑った。冷たい、乾いた笑い。
「腎臓だって一つ出した。血だって何度も抜いた。私の苦労は、あなたの目には映らないの?」
「お前は姉だ」
時男の声は低く、硬い。
暁は一瞬だけ黙り込む。じっと時男を見つめ、しばらくしてから、ゆっくり口角を上げた。
「姉だから、命まで差し出せってこと?」
時男が言葉を詰まらせる。
「誰が命をよこせなんて言った」
その横で、ゆきは泣きながらも、都合のいい言葉を挟む。
「時男……小林暁を責めないで。私が身体弱いから、暁に迷惑かけちゃって……」
時男がそれをどう受け取ったのか、声はいっそう冷えた。脅しが混じる。
「小林暁、謝れ」
暁は奥歯を噛みしめ、眩暈がするほど腹が立った。
「……クソ野郎」
吐き捨てるように言い、さらに鞄から手近なものを掴んで投げつけた。
そして、そのまま踵を返して部屋を出る。
「きゃっ!」
ゆきが悲鳴を上げ、時男の胸に縮こまる。
投げたものは顔には当たらず、時男の膝を打って、足元に落ちた。
小さな猫のチャームが付いた鍵束。
時男の顔色はさらに沈む。視線が、その鍵に釘付けになる。
「……小林暁って、私のこと歓迎してないのかな」
ゆきは時男の機嫌を窺いながら、あえて惨めそうに言った。
時男は鍵束を拾い上げる。手のひらに残る微かな温もりに眉をひそめつつも、ゆきには答えた。
「気にするな。お前は何も悪くない」
ゆきもその鍵束に目を落とし、わずかに眉を寄せる。
崎原家はほとんど暗証番号式だ。なのに、この鍵は――。
久しぶりに怒鳴り散らした暁は、奇妙なほど胸がすっとした。このまま家を出ようとしたが、警備が増えていて外へ出られない。
仕方なく客室へ戻り、手元にあった白い紙で下絵を描き始める。
そのとき、ゆきが入ってきた。
「小林暁」
外に人がいないとわかった途端、声の弱々しさが消える。
暁は顔を上げ、ゆきの得意げな表情を一瞬だけ見て、すぐ視線を落とした。
「……何?」
ゆきは軽やかな足取りで近づく。怪我人らしさなど欠片もない。
机に手をつき、甘ったるい調子で言った。
「崎原奥様って、楽しい?」
暁は答えない。
ゆきは勝手に続ける。
「その肩書き、ただ抱えて何になるの? まだ諦めきれないの?」
「離婚しないのは、あっちでしょ」
暁は顔も上げずに言う。
「嘘」
ゆきは暁の隣で立ち止まり、目を細めた。
「時男が愛してるのは――私……」
言葉が、ふっと途切れる。
ゆきの視線が、暁のうなじに吸い寄せられていた。
アイボリーのハイネックの下。隠しきれない赤い痕が、点々と滲んでいる。
見れば一目でわかる。
ゆきの顔色が、さっと白くなった。あの夜、泊まろうとして拒まれた記憶が蘇る。
そして目の前の暁は、手入れの行き届いた肌と顔立ちで、花のように艶やかだった。
嫉妬が、胸の奥で芽を出す。
――違う。時男は私を愛してる。そう言った。永遠に私に忠実だって。
ゆきの目が赤くなり、呼吸が荒くなる。
暁が振り向き、ゆきの視線とぶつかった。
まるで仇を見るような憎悪。
暁の胸がひゅっと縮む。反応する暇もなく、ゆきは発狂したみたいに机の上の画稿を掴み、びりびりと破り捨てた。
「何してるの!」
暁は立ち上がり、ゆきの手首を掴む。そのまま躊躇なく――平手打ちを叩き込んだ。
