第12章
その平手打ちは、小林暁が全力で振り抜いたものだった。もともと仕上げるのだって骨が折れる原稿を、理由もなく引き裂かれたのだ。できることなら、小林ゆきだって引き裂いてやりたい——そう思うほど腹の底が煮えたぎっていた。
小林ゆきは頬を叩かれると、一瞬だけ戸惑いを浮かべ、次の瞬間には瞳の奥に歓喜がせり上がった。「覚えてなさいよ」そう捨て台詞を残し、頬を押さえたまま部屋を飛び出していく。
何をしに行くのか、暁には嫌というほどわかっていた。
どうせ詰みなら、せめてみっともなくは死にたくない。
暁は眉を寄せ、しゃがみ込んで原稿を拾い集めた。破られてからまだ時間が経っていない。裂け目は多いが、損傷は致命的ではない。丁寧に合わせれば、簡単な補修で元に戻せる。
透明テープで慎重に繕っていると、扉の向こうから小林ゆきの泣き声が聞こえてきた。
「ちょっと、うっかりしただけなのに……なんでそんなに怒るの?」
暁が顔を上げると、入ってきた崎原時男と視線がぶつかった。
時男は眉間に皺を寄せ、明らかに機嫌が悪い。机の上の原稿に一度だけ目を走らせると、泣きじゃくる小林ゆきを連れて中へ入ってきた。
「それが、お前の態度か?」
ソファに腰を下ろす。机とは距離がある。声は低く、どちらに与するのかも読み取りにくい。
小林ゆきは俯いたまま、赤くなった頬の側面をわざと時男へ向けて座った。長い髪がさらりと落ち、弱々しく、それでいて意地だけは強い。細いすすり泣きが部屋の空気に滲む。
暁は表情を崩さないまま言った。
「叩かれて当然のことをしただけ」
時男は脚を組み、つま先をゆらりと揺らした。
「原稿なんて、なくなったならそれまでだ。ゆきは頭を打ったんだぞ。姉として、やりすぎだろ」
暁はそこでようやく彼を見る。冷えた目。嘲りも混じる。
「へえ。私のものは、ものですらないってこと?」
「謝れ」
時男は無駄なやり取りを嫌うように、声を冷たくした。
「消えろ」
ソファで肩を寄せ合う二人を見ているだけで、吐き気がした。
小林ゆきの泣き声が大きくなる。
時男の顔色がさらに悪くなる。
「小林暁……最近、ますます躾がなってないな」
見下ろす口調も、上から目線の態度も、いつも通り。
暁は奥歯を噛み、込み上げる嫌悪を押し殺した。
「もともと躾なんてありません。気に入らないなら、離婚届持ってきて」
小林ゆきのすすり泣きがぴたりと止まり、こっそり時男の反応をうかがう。
男は奥の歯を噛みしめ、目を暗くする。しかし、その言葉には正面から答えなかった。
小林ゆきの胸がひやりと沈む。慌てて涙声を作った。
「お姉ちゃん……時男と喧嘩しないで。私、あなたの実の妹だし、私のせいで二人が——」
「ゆき、関係ない」
時男は彼女の言葉を遮り、隣に座ったまま手のひらをそっと重ねた。手の甲を軽く叩き、宥めるように。
小林ゆきはそれで腹が据わった。
「……うん」
伏せた顔の唇が、わずかに弧を描く。
だが時男はすぐに立ち上がり、机へ向かった。暁に近寄りはしない。机越しに両手をつき、見下ろす。
「何が不満なんだ」
暁は髪をまとめていて、以前よりきびきびして見える。その分、距離がある装いだ。時男はあまり好きではない——はずなのに、目線を少し横へ逸らした瞬間、あの赤い痕が脳裏をかすめ、気分がわずかに持ち直す。これも悪くない、などと。
暁は胡散臭そうに見返した。
「不満なんてない。ただ、約束を守ってほしいだけ」
何の約束か。言わなくてもわかる。
それなのに時男は笑った。身体をさらに沈め、圧をかけるように近づく。
「度胸がついたな?」
嫌な予感に暁が眉を寄せるより早く、男は補修したばかりの原稿をつまみ上げ、ひらりと揺らした。笑みを浮かべたまま。
「頼みの綱は、こんな紙切れか?」
暁は跳ねるように立ち上がる。椅子ががたん、と倒れて大きな音を立てた。
「崎原時男!」
歯を食いしばりながらも、焦りで声は低くなる。彼が自分を握り潰すのは、蟻を弄ぶより容易い。エリスが多少名を知られたところで、崎原時男の前では卵で石を叩くようなものだ。
時男は笑みを消し、原稿を机にぱん、と叩きつけた。視線は女の赤く滲む目に釘付けになる。
「謝れ、小林暁。俺は気が短い。知ってるだろ」
暁は奥歯を噛み、目を閉じた。
「……ごめんなさい」
逃がさない。時男は身体を少しずらし、背後の小林ゆきを示す。
「誰にだ?」
暁の身体が小さく震える。胃の奥がひっくり返りそうだ。
「……ごめんなさい、小林ゆき」
ようやく望んだ謝罪を聞けたのに、小林ゆきは満足しない。目を赤くしながら、暁と時男を交互に見る。時男が自分を庇うのなら、叩き返してくれるべきじゃないのか。軽い一言で終わるなんて。
不満をこらえるように唇を尖らせ、それでも「いい子」の仮面は崩せず、小さく頷く。
「ううん……いいの。お姉ちゃんのこと、責めない」
時男の手のひらはまだ原稿の上に置かれたまま。暁へ視線を戻し、顔色の悪さに気づくと声音を少し緩めた。
「もう二度と——」
言い終える前に。
「うっ……!」
暁が急に身体をひねり、激しく嘔吐した。吐瀉物の生臭さが一瞬で部屋に充満する。
小林ゆきは反射的に鼻を押さえる。
時男は近いのに動かない。ただ、眉だけが深く寄った。
暁が吐き終えるのを待って、ようやく口を開く。
「まだ微熱が続いてるのか?」
暁は気分が悪く、額に手を当てる。熱はない。だが言う気になれず、適当に頷いた。
「……うん」
時男は床の汚れを一瞥し、露骨に嫌そうな顔のまま言った。
「部屋を替えろ」
すぐに使用人が駆けつけ、手際よく後始末を始めた。
暁は二階の小さな客室へ移された。独立したバスルームはあるが、書斎はない。
かかりつけの医者も呼ばれたが、はっきりした異常は見つからず、胃腸を整える薬を少し出されただけだった。
周囲は皆、暁の微熱が治りきっていないのだろうと疑った。けれど暁だけは知っている。微熱はとっくに引いている。吐き気には、別の理由がある。
ぬるい水を両手で包み、暁は考え続けた。そして胸の奥をよぎったひとつの可能性に、手のひらがじっとり汗ばむ。
崎原家の裏口は、宅配が受け取れる。
深夜、暁はスマホで注文を入れ、柵の陰に身を潜めて待った。
遠くからふらふらと車のライトが近づく。暁はぱっと立ち上がり、見落とされないよう必死に手を振った。
「お届け物でーす。よかったら評価お願いしまーす」
薬局の梱包は、いつもの紙袋だった。
暁は足音を殺して二階へ上がる。だが三階の主寝室のバルコニーに、人影があることには気づかなかった。
小林ゆきが冷え切った顔で立ち、暁が部屋に入るのを見送っていた。
客室へ戻ると、暁は紙袋を洗面所の棚に放り込み、そのまま布団へ潜り込む。心は少しも落ち着かない。明日の結果が最悪でないよう、ただ祈った。
その夜、暁はほとんど眠れなかった。赤い目のまま起き上がり、ぼんやりした頭でトイレに座って、ようやく本題を思い出す。
棚の紙袋を開ける。中に入っていたのは、妊娠検査薬の箱だった。
緊張している暇もなく、暁は手早く包装を破り、説明通りに手を動かす。
歯を磨きながら、落ち着かない視線が何度も検査薬へ吸い寄せられる。
一本目の線はすぐに出た。二本目は、見えるような、見えないような——曖昧で、心臓が嫌にうるさい。
「……まさか」
三分。薄かった二本目が、ゆっくりと、はっきりと浮かび上がった。
ぱたん。
検査薬が床に落ちる。
暁はその場で固まり、まだ署名されていない離婚協議書のことが頭をよぎった。
視線を落とす。
子どもができたなら——それでも、自分は離婚するのか。
