第2章
「お前は死なない」
意識がぷつりと途切れる直前、崎原時男は氷みたいに言い放った。
言葉通り、彼女は死ななかった。
目を開けると、白い病院の天井が視界いっぱいに広がっている。
ドアが押し開けられ、看護師が入ってきて容体を確認した。
「目、覚めました? 手術は成功しましたから。しっかり休んでくださいね」
小林暁は力が入らず、やっとのことで声を絞り出す。
「……おじいちゃんは……?」
看護師は小さく息を吐いた。
「申し訳ありません。あなたの手術中に……蘇生が間に合わず、亡くなられました」
――え?
小林暁の身体が、音もなく固まった。血の気の引いた顔で、真っ白な壁を見つめたまま、胸の中だけがぽっかり抜け落ちる。
泣き声すら出ない。
ただ、子どもみたいに身を丸め、震えるしかなかった。
どれくらい経ったのか。
ドアが開き、崎原時男が入ってくる。温度のない声だった。
「小林ゆきは峠を越えた。離婚の手続きは弁護士に進めさせてる」
――つまり。小林ゆきが戻った今、彼にとって自分はもう用済みだ。
「家はお前にやる。離婚協議書は弁護士から送らせる」
崎原時男は淡々と続ける。
「これから先、小林ゆきの前に姿を見せるな」
小林暁はふらつく身体をどうにか起こし、上半身を起こした。目の奥が赤く灼けている。
「崎原時男……おじいちゃんが、亡くなった」
「知ってただろ」
冷たい一言。
「知ってた?」小林暁の声が震える。「知ってたなら、どうして……!」
「どうして、おじいちゃんの前であんなこと言ったの!」
「どうして、最期に一緒にいさせてくれなかったの……!」
掠れた声が、喉で千切れる。
「おじいちゃんがいちばん見たかったのは、私たち二人がちゃんとしてるところだった……!」
「どうして……演技でもいいから……最後の一回ぐらい、してくれなかったの……!」
小林暁は顔を覆い、嗚咽混じりに叫んだ。
崎原時男は眉ひとつ動かさない。
「小林ゆきは待てなかった」
「じゃあ、おじいちゃんは待てたの?」
小林暁は勢いよく顔を上げ、怨みを滲ませた。
「崎原時男……あなた、心ってあるの?」
「脳血栓は元々治らない」
崎原時男は理性だけで切り捨てる。
「小林暁、お前はそれを口実に騒いでるだけだ」
見下ろす視線の冷たさに、胸が刃物でえぐられたみたいに痛む。
五年。
五年かけて、彼を愛して。小林ゆきを演じて。喜ばせようとして。
――結局、何を手に入れた?
「家と車、それに現金1億も渡す」
崎原時男は腕時計に目を落とす。
「小林ゆきが待ってる。行く」
背を向けた男は、振り返りもしなかった。
――五年前の光景が、胸の奥からせり上がる。
あの頃の崎原時男は、崎原家でも軽んじられる隠し子だった。
慈善晩餐会の場で、無数の視線を浴びながら片膝をつき、小林ゆきにプロポーズした。
「小林ゆき、俺と結婚してくれ。生涯、お前だけを大切にする!」
小林暁は人混みの隅で、それを見ていた。三年片想いした男が、別の女へ差し出す誓い。心がばらばらに砕けた。
小林ゆきは淡く笑っただけで、会場を去った。
当時の崎原時男には権力も地位もない。隠し子の男など、眼中になかったのだ。
それから一か月後、小林ゆきは失踪した。
崎原時男は狂ったように探した。持てる力のすべてを使って。
小林暁も手伝った。徹夜で探し、焦る彼のそばにいた。
そして崎原時男が崎原家の実権を握った頃、行方不明の小林ゆきから一通の手紙が届いた。
そこにはこう書かれていた。――小林暁に追い出された。小林暁は崎原時男と結婚したかったから。
同封されていたのはUSB。
映像には、小林暁が小林ゆきに「出ていって」と迫っているように見える場面が切り取られていた。
『崎原時男、帰れないの……あの子のせい。小林暁のせい!』
動画の中の小林ゆきは、雫を散らして泣いていた。
その日から、崎原時男の視線は嫌悪に変わった。
「小林暁……よくやったな」
「違う、時男……あれは編集で、私はただ……」
「黙れ」崎原時男は遮った。「まだ嘘をつく気か?」
『お姉ちゃん、私と時男を一緒にしてくれてありがとう』
小林暁は忘れられない。
小林ゆきの得意げな目。崎原時男の底冷えする嫌悪。
もう二度と関わることもない――そう思った矢先、崎原時男が彼女を見つけ出して言った。
「代わりになれ。小林ゆきを演じろ」
小林暁は彼を愛しすぎていた。これで心を温められる、と偏執的に信じた。
五年間、彼女は小林ゆきを演じ続けた。好みも癖も、すべて真似た。
いつか崎原時男が、自分の良さに気づくと信じて。
術後三日目、小林暁は熱を出した。
「術後反応です」と看護師は言うが、身体はひどく弱って、意識が霞む。
傷口はじくじく痛み、少し動くだけで刃物で切られるみたいだった。
スマホがぶるりと震える。
ニュース通知。
「崎原時男社長、愛する人の回復を祈り、児童福祉施設へ3000万寄付」
画面には、病院で小林ゆきのそばに座る崎原時男。
「小林さん、本当にお幸せですね」司会者が笑う。
小林ゆきは恥じらうように微笑んだ。
「時男がいてくれるから、もちろん幸せです」
――絵になる恋人たち。
小林暁はニュースを見つめ、涙が音もなく落ちた。
そのとき、電話が鳴る。
「小林暁、週末クラス会あるんだけど来ない?」
大学の同級生、幸村蓮二だった。
「ごめん……入院中で、行けない」小林暁は弱々しく答えた。
「入院? どうした? どこの病院?」
「市立病院。大丈夫、ちょっとした手術」
「今から行く」
一時間後、幸村蓮二は病室の前に立っていた。手にはシャンパンローズの大きな花束。
「お見舞いって花がいいって聞いてさ。何がいいかわからなくて」
小林暁の視線に気づき、気まずそうに頭をかく。
「……派手すぎた?」
花束を見た瞬間、鼻の奥がつんとした。
何日ぶりだろう。医師と看護師以外で、自分を見に来た人。
「ありがとう、蓮二」
幸村蓮二は花を床頭台に置き、ベッド脇に腰を下ろした。
「どうして急に手術なんて?」
「……腎臓、片方取っただけ」小林暁はさらりと答えた。
「は?」幸村蓮二が立ち上がる。「なんで腎臓を?!」
小林暁は黙る。
幸村蓮二は彼女の青白い顔を見て、察したように目を細めた。
「……小林ゆきのため?」
小林暁は小さく頷く。
「崎原時男が要求したんだな?」
――沈黙。
幸村蓮二は深呼吸し、怒りを飲み込んだ。
「小林暁、それは割に合わない」
「わかってる」小林暁は苦く笑う。「でも……」
「小林暁」幸村蓮二は彼女をまっすぐ見た。
「拒めたはずだ」
「蓮二、あなたには……」
「わかる」幸村蓮二は遮った。
「五年、俺はずっと見てた。お前はあいつが好きで、何でもしてきた。でも崎原時男は? お前を何だと思ってる?」
小林暁は目を伏せ、言葉を失った。
幸村蓮二はため息をつき、少し柔らかい声に戻す。
「……悪い。今のは言いすぎた。休め。何かあったらいつでも電話しろ」
立ち上がって出ようとした、そのとき。
廊下で看護師が話している声が耳に入った。
「1102号室の人、可哀想だよね。旦那に無理やり浮気相手に腎臓提供させられて……」
「それな。おじいさん亡くなった時も、手術に連れて行かれて最後に会えなかったって……」
「そんな男、よく病院に来られるよね」
幸村蓮二の拳が、白くなるほど握り締められた。
病室の中の小林暁は、枕にもたれ、窓の外を見ている。
死んだみたいに静かな顔。
幸村蓮二は胸をえぐられた。
大学の頃から好きだった。越えちゃいけない線を守って、黙って見守ってきた。
崎原時男と小林暁が愛し合っていると思ったから、身を引いた。
――でも、これは違う。
もう見て見ぬふりはできない。
一方で、崎原時男は小林ゆきの病室へ向かった。
ドアを開けると、小林ゆきが顔を上げて微笑む。
「時男、来たの?」
「……ああ」崎原時男はベッド脇に座る。「体調は」
「だいぶ良くなったよ。先生も回復順調だって」
小林ゆきは本を閉じ、少し声を詰まらせた。
「時男……今回、本当に暁に感謝しないと。あの子がいなかったら……」
「考えるな。治すことだけ考えろ」崎原時男は遮った。
小林ゆきが小林暁の名を出した瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
崎原時男は眉をひそめ、その違和感を押し込める。
「時男……」
小林ゆきがなおも何か言おうとした、その前に崎原時男が口を開いた。
「ゆき。……小林暁の様子を見てくる」
そう言って病室を出る。
小林ゆきだけが取り残され、奥歯を噛みしめた。
小林暁の病室は遠くない。
埋め合わせのつもりで来たはずなのに、ベッド脇のシャンパンローズが目に入った瞬間、崎原時男の足が止まる。
「誰が送った」
自分でも理由のわからない苛立ちが、声に混じった。
「同級生」小林暁は崎原時男に気づき、わずかに目を見開く。
「どの同級生だ」
「あなたの知らない人」小林暁は冷たく返した。
崎原時男は花束を睨み、顔色を悪くした。
