第6章
崎原時男の声が響いた瞬間、さっきまで威張り散らしていた小林ゆきの顔が、すっと別のものに変わった。
「うっ……時男……!」
両手で顔を覆い、しゃくり上げながら、玄関から入ってきたばかりの崎原時男に縋りつく。シャツの裾をぎゅっと掴み、震える声で言った。
「小林暁……お姉ちゃんが……」
事情を確かめる暇もなく、崎原時男は反射的にゆきを庇い、そのままベッド脇に座る小林暁へ視線を向けた。
――けれど、続くはずだった叱責が喉で止まる。
小林暁は顔を押さえている。指が小さく、頬に浮いた赤い痕を隠しきれない。
「……どういうことだ」
あれはどう見ても手の形。平手打ちの痕だ。
崎原時男の胸に、珍しく「裁く」衝動が芽を出す。
その気配を察したのか、小林ゆきの肩がわずかに強張った。小林暁が口を開きかけたのを見るなり、ゆきが慌てて割って入る。
「暁が……私が、おじいちゃんの見送りに行かなかったって言ったの。でも、あのとき私、具合が悪かったんだよ……」
涙声のまま、ゆきは崎原時男の手を掴み、左右に揺らす。
「不孝だって言われて……私、ついカッとなって……ごめんなさい。私が悪い」
耳元で「黒」を「白」に塗り替えていく声を聞きながら、小林暁の心は不思議なほど静かだった。冷たい掌で少し頬を冷やし、それからゆっくりと手を下ろす。
「私は、そんなこと言ってない」
黙って屠られるつもりはなかった。か細い声でも、自分の言葉で否定する。
それでも――天秤は、彼女のほうへ傾かない。
崎原時男がゆきを庇うように言った。
「ゆきは、理由もなく手を上げるような子じゃない」
目の奥に熱が溜まり、今にもこぼれそうになる。
小林暁は息を吸い込み、睫毛を震わせたまま、かすかな声で返した。
「……そう」
俯きがちに、口元だけがほんの少し上がる。笑みの形をした、凄惨な孤独。
それを見た崎原時男は、無意識に掌に力を込める。
掴んでいた小林ゆきの腕に強い力が入り、ゆきが眉をひそめた。その一瞬で、警戒の色も走る。
「……よく反省しろ」
男はそれだけ吐き捨て、原因を連れたまま出ていった。
その夜、小林暁はほとんど眠れなかった。涙で枕がじっとりと濡れる。
朝、起き上がると眩暈がいっそう重く感じた。涙染みのついた枕をぼんやり見つめ、しばらく黙ってから、手を伸ばして裏返す。
スマホには未読がいくつもあった。ほとんどが幸村蓮二からで、心配と気遣いが画面から溢れている。
小林暁は顔色一つ変えず、「大丈夫」とだけ返した。
残りは、親友の成田七海から。
大学の同級生で、卒業後は同じくデザイナーとして働き、普通の友人よりずっと距離が近い。
七海のメッセージは、文字だけでも「もどかしさ」と「怒り」が滲んでいた。
【暁、これ以上崎原時男のために才能を捨てるなら、私ほんとにお祓い呼ぶからね】
【崎原時男は、あんたが尽くす価値ない】
その文面だけで、七海の顔が目に浮かぶ。
指が画面の上で少し止まった。
五年の献身。小林ゆきの帰還。
それだけで、小林暁の中に残っていた崎原時男への感情の大半は、削れて消えていた。
――七海の言うとおりかもしれない。
どうせ離婚する。離れたあとには、仕事が必要になる。
そう腹を決めて、七海に返信した。
待ち合わせは市立図書館。
一階へ降りると、オープンテラスのティーラウンジに崎原時男がいた。小林ゆきの姿はない。
小林暁は足早に通り過ぎ、彼を視界に入れない。
「どこへ行く」
崎原時男がカップを置き、問いかける。
「あなたには関係ない」
小林暁は目を逸らし、歩みを止めない。
だが崎原時男が追ってきて、玄関で靴を替える彼女の腕を掴み、壁の装飾画の前へ押しつけた。
「だめだ」
「崎原時男! 干渉しすぎ!」
小林暁が抗うと、男の目が暗く沈む。顔が近づき、低い声が落ちた。
「忘れるな。まだ離婚は成立してない。幸村蓮二とは距離を取れ」
「会いに行くのは彼じゃない!」
反射的に言い返し、怒りが噴き上がる。
「誰と会うかなんて、あなたに決められる筋合いない」
崎原時男は小林暁の癖を知っている。今の反応が嘘じゃないことも、すぐに分かった。
腕は放された。
――けれど、外出の許可は出ない。
「ゆきの状態が不安定だ。お前は離れるな」
壁にもたれた崎原時男は、長身を気怠く預けているだけで絵になる。モデルのような、無駄のない輪郭。
靴に手を伸ばしかけた小林暁の動きが止まる。
目を上げ、男と視線がぶつかった。
胸がきりきりと痛む。息が詰まるほどに。
「戻ってくる」
小林暁は、ようやく掴んだ決意を手放したくなかった。
「……あの子が必要なら、そのときは」
従順すぎる。
崎原時男は喜ぶべきなのに、伏し目がちな小林暁を見ていると、なぜか喜べない。
馴染みの苛立ちがまた胸に湧き上がり、男は眉を寄せた。
「……いい」
小林暁は黙って立ち上がり、屋敷を出る。門を抜けた瞬間、走った。
背後の檻から、少しでも遠ざかるために。
久しくペンを握っていないから、感覚が鈍っていると思っていた。
けれど現実は逆だった。才能は、彼女を見捨てていない。
成田七海が彼女のラフを抱え、羨望のため息をつく。
「やば……この線。五年描いてなかったとか、誰が信じるの」
そして笑った。
「さすが、千金積まれても欲しがられたエリス」
エリス――それは小林暁のペンネーム。
かつては資産家たちが、彼女のデザイン画一枚を求めて争った。
だが、その仕事は長く続かなかった。
崎原時男から電話が入る。
「ゆきが倒れた。10分で戻れ」
小林暁は黙って通話を切った。
その表情を見て、七海も察したのだろう。引き止める言葉は飲み込んだ。
崎原家。
玄関に入った途端、小林暁は医師に連れられ採血される。
担当は、前と同じ医師。
急いで戻ってきたせいで何も口にしていない。消毒液の匂いが頭を殴り、ようやく治まっていた眩暈がまたぶり返す。
崎原時男が来たとき、ちょうど彼女の青白い顔が目に入った。
男の視線が、女の左頬で止まる。
そこも真っ白だ。昨夜は確かに赤く腫れていたのに。
崎原時男は無言で近づき、指で頬をなぞる。指先についた白い粉。
そして、その下から透けて見える赤。
声が氷みたいに冷える。
「これが……協力してるって言う態度か」
そのとき小林ゆきも入口へやって来て、しゃくり上げながら言った。
「私が、お姉ちゃんに無理させちゃって……」
採血は止められない。
医師が出ていき、ようやく小林暁は落ち着いた。だが立ち上がった瞬間、
「うっ……」
込み上げてきたものを堪えきれず、吐いてしまう。
これはファンデーションでは隠せない。
崎原時男の顔色が変わった。
床の汚れを見下ろす目に、露骨な嫌悪が浮かぶ。
小林暁はそれに気づき、瞳を沈めた。
「……ごめんなさい」
片づけようと身を屈めかけた、その背に崎原時男の声が落ちる。
「専属の医者を呼べ」
その言葉に、小林暁だけでなく小林ゆきもはっと顔を上げた。
だが崎原時男の視線は、ゆきには向かない。
小林暁だけを見ている。
――今朝の男の焦りが頭をよぎり、小林ゆきはそっと唇を噛んだ。
そして小林暁へ目を向ける。
(……侮ってた。小林暁)
その夜、崎原時男のもとへ小林ゆきから電話が入った。向こうは泣きながら「つらい」と訴える。
彼が部屋へ行くと、小林ゆきは肩紐の細いシルクのナイトドレス姿だった。むき出しの肩が甘く香り、胸元から彼に飛び込んでくる。
「時男……苦しいの。ねえ、一緒に寝て……?」
