3、

後藤正樹視点

俺は通話を切るなり、シンク脇に置いてあったオフロード車のキーをつかみ、ついでに救急箱もひったくった。

防寒着をきちんと着込んでいる暇なんてない。黒のカシミヤコートを一枚ひっかけ、そのまま外へ飛び出す。

雪はひどかった。

風に巻き上げられた雪片が、ばしばしとフロントガラスを叩く。

ワイパーを最速にしても、視界は白く潰れたままだ。

今回の休暇は、本来ならグループに溜まっていた書類仕事を片づけるためのものだった。

それがまさか、明け方前の峠道をぶっ飛ばす羽目になるとは。

この天候と路面状況なら、普段は一時間かけても飛ばしすぎだと判断する。

だが、軍で叩き込まれた訓練のおかげで、こういう極限環境には慣れている。

今の俺にあるのは、もっと速くという焦燥だけだった。

アクセルを床まで踏み込む。

四輪駆動が凍結路で激しく空転し、電子制御が無理やり車体を引き戻す。

立て直した次の瞬間には、もう一度踏み抜いていた。

頭の中で反響しているのは、後藤快斗のあの声だけだ。

――脈がすごく速い。体温も、めちゃくちゃ熱い。

蘭は、少し風に当たっただけでも半月は咳き込むような身体だ。

俺はハンドルを握る手に力を込めた。

指の関節が白くなる。

後藤快斗。

お前はあいつを、どれだけ一人で放っておいた。

三十分。

本来なら一時間以上かかる山道を、俺は三十分で潰した。

北峰キャンプ場が、眩しいハイビームの中に浮かび上がる。

ブレーキ音が夜気を裂き、黒いオフロード車がキャンプ場の中央へ横滑り気味に突っ込んだ。

巻き上がる雪煙。

焚き火のそばには、スキーウェア姿の若者が十数人。

酒杯を片手に、まだ騒いでいた。

突然のライトに目を焼かれ、苛立ったように振り返る者がいる。

俺はドアを開け、くるぶしまで埋まる雪を踏みしめて降り立った。

無言のまま、冷え切った視線で連中を一掃する。

見覚えのある顔ばかりだ。

快斗がいつもつるんでいる連中。

さっきまで喧しかったキャンプ場が、一瞬でしんと静まり返った。

調子に乗っていた数人の男どもも、俺の顔を認めた途端、あからさまに青ざめる。

俺を恐れている。

快斗の兄だからだけじゃない。

後藤グループの実権を握る人間であり、この北国で最年少クラスの少佐でもあるからだ。

そんな連中に構っている時間はない。

俺は視線をあの見慣れたキャンピングカーへ固定し、そのまま大股で向かった。

ドアを引き開けた瞬間、刺すような冷気が正面からぶつかってくる。

後藤快斗が床にへたり込み、蘭を抱き寄せていた。

「蘭、頼む、耐えてくれ……兄貴がもう来るから……!」

俺は車内へ踏み込み、毛布にくるまって縮こまるその人影に目を落とす。

呼吸が止まりかけた。

心臓の奥が、鈍く痛む。

蘭は目を閉じたまま、頬だけが熱に浮かされて赤い。

そのくせ唇は、血の気が失せるほど白かった。

眉は苦しげに寄せられ、呼吸はかすかで、今にも消えそうだ。

まるで、息絶える寸前の小さな猫みたいに。

冷や汗で濡れた髪が、数筋、頬に張りついている。

「兄貴!」

物音に気づいた快斗が顔を上げた。

目は真っ赤だった。

いつもの生意気さも、拗ねた態度も、今は欠片もない。

「兄貴、やっと来た……! 頭はすげえ熱いのに、身体は冷たくて……」

聞くに堪えない。

俺はそのまま歩み寄り、襟首をつかんで蘭のそばから力ずくで引きはがした。

快斗の身体が横へ吹っ飛び、脇の収納扉に鈍い音を立ててぶつかる。

俺は床に片膝をつき、救急箱を脇へ放り出した。

そのまま手を伸ばし、蘭の額に触れる。

指先に伝わった熱が、神経を伝って最後の理性まで焼き切っていく。

異常な熱さだった。

俺は今すぐ快斗を半殺しにしたい衝動を押し込み、蘭の身体に巻かれた毛布を丁寧にかき寄せ、隙間ができないよう包み直す。

「蘭」

低く呼ぶ。

返事はない。

ただ胸が、ごくわずかに上下するだけだ。

俺は救急箱を開け、電子式の耳式体温計を取り出す。

カバーを外し、蘭の頭をそっと支えながら、プローブを耳へ差し入れた。

ピッ。

乾いた電子音。

視線を落とす。

液晶に浮かんだ赤い数字が、やけに鮮烈だった。

39.8℃。

この熱は、蘭なら本当に命に関わる。

体温計を握る指に力が入り、プラスチックの外装がみしりと鳴った。

俺はゆっくり立ち上がり、車内の隅に転がる快斗を冷たく見下ろす。

「これが、お前の言う『ちゃんと面倒を見る』か?」

怒声が車内を打った。

快斗は全身を震わせ、しどろもどろに言い訳する。

「俺、知らなかったんだよ……ほんとに知らなかった! ディーゼルが凍るなんて……優里があっち面白いって言うから、ちょっとだけ外に……ほんの少しだけで……」

ほんの少し。

そんなもの、信じるわけがない。

俺はこいつを知っている。

遊び始めたら加減を失う。今が何時だと思ってる。もう朝の4時前だ。蘭が高熱を出しているのに気づいたのがこの時間なら、外で浮かれきって、あいつのことを忘れていた以外にない。

蘭は、あの冷えきった車内でどれだけ耐えた。

――考えたくもない。

気管支に重度の持病がある恋人を。

氷点下十数度の車に置き去りにして。

自分はよその女と遊びほうけていた。

俺は目を閉じ、深く息を吸う。

軍人として染みついた規律が、かろうじて俺を止める。

今は殴る時じゃない。先に蘭を助ける。

車内の温度は低く、吐く息が白く曇る。

俺は向き直り、救急箱を手元へ引き寄せて留め金を外した。

中には常備薬が整然と収まっている。

無表情のまま探り、イブプロフェンのシートを抜き取る。

蘭の身体じゃ、山を下りるまで保たない。

まずは一刻も早く熱を落とさなければならない。

錠剤を指に挟み、俺は快斗へ鋭く命じた。

「水を持ってこい!」

快斗はようやく我に返ったように飛び上がり、転がるように車内奥のミニキッチンへ駆けていった。

そして、すぐに慌ただしく戻ってくる。

「水、持ってきた!」

蘭のそばに膝をつき、肩を支えようと手を伸ばす。

その手元を見た瞬間、俺の瞳がすっと細くなった。

ミネラルウォーターのボトル。

表面には、びっしりと霜が張りついている。

氷点下十数度。

ボトルの外側は厚く白く凍りつき、数歩離れた位置からでも冷気が伝わってくるほどだ。

それを。

こんなものを。

40℃近い熱を出して衰弱しきった人間に飲ませるつもりだったのか。

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