紹介
何年もの間、私は日陰で待ち続けた――健康を損ない、心を無視され、ただの付属品のように扱われながら。
けれど、彼が別の誰かのために、吹雪の中に私を置き去りにしたあの夜、ようやく真実に気づいた。私は彼に愛されていたのではない。ただの「義務」だったのだと。
壊れかけの心臓を抱え、逃げ場のない凍てつくRV車に閉じ込められた私は、一人で最期を覚悟した。
――そこへ、後藤正樹が現れるまでは。
快斗の冷徹で孤高な兄。私のことをいつも「目障りな厄介者」としか思っていなかったはずの男が、嵐を切り裂いて私を救いに来てくれたのだ。
「もしあの子に万が一のことがあれば」と、彼は快斗に向けて低く唸った。「二度と家に戻ってくるな」
彼は私の命を救っただけではない。有害な関係の瓦礫から、私を引きずり出してくれた。
だが今、二人の境界線が滲み始めている。
軍人としての冷たく規律正しい仮面の裏で、危険な執着が目覚めていた。
ある夜、彼は私をドアに押しつけ、10年間隠し続けてきた渇望で瞳を燃え立たせた。
「本当に思っていたのか?」彼は掠れた声で囁いた。「俺がお前の『兄』でいたいだけだったと?」
今さら快斗は復縁を求めて懇願してくるけれど、私はもう前に進んでいる。
私はすでに、正樹が仕掛けた冷徹で計算高い罠に足を踏み入れており、もう後戻りはできない。
家族の秘密と禁断の欲望が渦巻く世界で、私は選ばなければならない。
自分を壊した「少年」か、それとも、静かに、そして執拗に自分を支配しようとする「男」か。
チャプター 1
白川蘭視点
キャンプ場の外から鳴り響く重低音が、キャンピングカーの車内をぶるぶる震わせる。鼓膜の奥まで突き上げるようで、頭の中もどくん、どくんと脈打った。
私は炭筆を握りしめ、スケッチブックの上で彫刻の影を乱暴に塗り潰す。
――ひどい下絵。
線は荒れて、構造は傾き、いつもの私の水準とは比べものにならない。
深く息を吸う。胸の奥からせり上がる吐き気を、どうにか押さえ込もうとした。
そもそも、雪山なんて来るべきじゃなかった。
スタジオはこの半月で、大型インスタレーションの特急案件を三件も抱えた。チーフスカルプターの私は、ほとんど毎日、明け方の二時三時に寝て、朝は六時七時に起きる。
親友の高坂綾乃は、山みたいに積まれた廃棄石膏モデルの間に立ち、私の青黒い目の下を指さして怒鳴った。命削ってる、と。あんたは仕事中毒だ、と。
それでも、後藤快斗からの一本の電話で、全部がひっくり返った。
やけに元気な声でまとわりついてくる。
「雪山のキャンプ場、星空がすげえ綺麗らしいんだ」
「全然会えてない。会いたい」
「蘭が来ないなら、この旅行、意味ないだろ?」
後藤快斗は、私の扱い方を知り尽くしている。
子どもの頃から、あの少し拗ねた目をされるだけで。あるいは、甘えた声で名前を呼ばれるだけで。私はいつも折れてしまう。
生まれつき身体が弱い。冷たい風を浴びれば半月は咳が止まらない。忙しくて足が地に着かないほどでも、彼に「無理」と言い切るだけの心は、どうしても持てなかった。
炭筆を置き、重たい頭を手で揉む。ふわふわして、足元が遠い。
快斗を呼ばなきゃ。本当に……具合が悪い。
テーブルの縁に手をついて、どうにか立ち上がる。
窓ガラスには分厚い白い霜が張りついていた。手の甲で曇りをこすって小さく覗くと、刺すような雪明かりが一気に目に飛び込んでくる。
外は遊園地みたいに騒がしい。色とりどりのスキーウェアが、雪に覆われたキャンプ場を行き交っていた。背の高い松には暖色のキャンプライトが連なり、少し先には大きな焚き火。
一瞬で見つけた。後藤快斗。
やたら目立つ鮮やかな赤のシェルを着て、ゴーグルも付けず、改造オフロード車のボンネット脇で笑い転げている。手に握った雪を、誰かの襟元に押し込もうとしていた。
追い回されているのは小林優里。大学の同級生だ。
白のショートダウンにスキニーデニム。弾むような体のラインがくっきり出ていて、いかにもスポーツ系の女の子。
彼女は逃げない。逆に雪をひと掴みして、遠慮なく快斗の顔にべしゃっと塗りつけた。
「うわっ、冷てえ!」
快斗が大げさに叫び、雪を放り投げて顔をぬぐう。その隙に小林優里が彼の背中へ飛びつき、けらけら笑った。
快斗は振り返って彼女を見上げる。怒りなんて欠片もない。あるのは、全面的な甘やかしと楽しさだけ。
――眩しくて、目に痛いほどの親密さ。
小林優里は典型的なアクティブ女子だ。レースもスポーツも大好きで、快斗の耳をつんざくヘヴィメタルの中でも平気で一緒に狂える。危険なバックカントリーにも付き合えるし、サーキットではコ・ドライバーだって務まる。
それに比べて私は。
粉塵に敏感で、ガソリンの匂いで吐き気がして、少し歩いただけで息が切れる――病弱の代表みたいな人間。
冷や汗が背中を伝い、肌に張りつくカシミヤのニットがじっとり濡れた。ドアの隙間から冷気が入り込み、ぶるっと震える。
本当はドアを開けて、「快斗、つらい」と叫びたかった。
でも、窓の向こうで太陽みたいに笑う彼を見た瞬間、喉が凍りついたみたいに声が出ない。
今ここで出ていったら、この「彼らの」盛り上がりは一瞬で止まる。
快斗は笑顔をしまい、心配そうで――それから、ほんの少しだけ面倒くさそうな顔になる。友達を置いて、私のところへ走ってくる。
そしてみんなが知るのだ。後藤快斗のノリを悪くする彼女が、また体調を崩したって。
そんな場面は、私たちが育ってきた年月の中で、何度も繰り返された。
私は、足手まといになりたくない。小さい頃からずっと。
ゆっくりとドアノブから手を離す。
……いい。少し我慢すれば。彼が遊び終わって戻ってきたら、その時に言えばいい。
力の抜けた脚を引きずり、狭い椅子に戻って座る。膝を抱えて身体を丸め、残った体温を逃がさないようにした。
窓の白い曇りがまたじわじわ広がり、外の景色にぼんやりしたフィルターがかかっていく。
焚き火の方から、突然どっと大きなどよめきが上がった。
同じくスキーウェアの若者たちが、山みたいに雪球を抱えて、わっと快斗の方へ走っていく。
「快斗! 雪合戦やるぞ! 負けたら夜は罰ゲームで酒だ!」
喉を張り上げる声が飛ぶ。
快斗は、いかにも生意気な挑発のジェスチャーを返した。腰をかがめて雪球を作り始める。背後のキャンピングカーの中で、私が霜のガラス越しに息も絶え絶え見ていることには、まるで気づかない。
小林優里が彼の背中から降り、そのまま手を伸ばして、快斗の手をがしっと掴んだ。引っぱって人の輪へ連れていく。
快斗はその手を振りほどかない。むしろ彼女の肩を軽く抱いて、雪で滑らないよう支えた。
その瞬間、頭痛が一気に強くなった。
二人がどんな関係なのかなんて、考えない。
大人の恋は、境界線がいったん曖昧になったら、自分を騙し続ける方が滑稽だ。
私と快斗の間には、もうとっくにひびが入っている。ただ、どちらもそれを突き破る勇気がないだけ。
小林優里に引かれて二歩三歩歩いた快斗が、ふと何か思い出したように立ち止まった。
振り返り、焚き火と人波の向こう――このキャンピングカーへ視線を向ける。
心臓が、一拍抜けた。
霜のガラス越しで、彼には私が見えるはずもないのに。私は息を殺してしまう。
来てくれる? 私の異変に気づく?
快斗は手を上げ、こちらへ二度ほど振って、声を張り上げた。
「蘭! 車でいい子に待ってろ! すぐ戻るから!」
その声は車内まで貫通してきた。軽くて、明るくて――まるで、荷台に残したペットをあやすみたいに。
言い終えると彼は一切の未練もなく向き直り、小林優里に引かれて二人並んで走り去っていった。
車内が、完全に静まる。聞こえるのは、自分の荒い呼吸だけ。
「すぐ戻る……」
その言葉を、苦笑いで噛みしめる。
彼の「ちょっと待って」は、決して「ちょっと」じゃない。数時間かもしれないし、深夜まで。冷気と、他人の香水をまとって戻ってくるまで。
冷や汗で服はぐっしょり濡れ、肌に冷たく張りつく。眩暈が雪崩みたいに押し寄せた。
手足の熱はもうとっくに消えて、指一本動かすのもつらい。
明るかった世界が、歪んで、褪せていく。
身体の力が抜け、私はそのまま深い闇へ落ちた。
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十八年間、空気のように扱われ、誘拐事件の際にも迷わず切り捨てられた私。
「強さ」という名の言い訳で死の淵に追いやられた私は、地獄の果てで生き延びた。
そして今、全国民が見守る超人気リアリティショーの舞台に、私は「かつての復讐者」として舞い戻る。
家族が偽りの善人面を振りまく中、彼らの仮面を一枚ずつ剥ぎ取っていく最高のショウタイム。
そんな私を面白がり、盤面をひっくり返す男がいた。冷徹なるF1チャンピオン。彼だけは、私の冷酷な正義を肯定し、その権力で私を囲い込む。
さあ、復讐劇の始まりよ。私を「可哀想な犠牲者」だと思っていた報い、その身に刻ませてあげる。
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しかし現実の結婚生活は、私を泥のような惨めな境遇へと引きずり落とした。
夫と息子にとって、私は愛人の飼い犬にさえ劣る存在でしかなかったのだ。
離婚届に淡々と署名する二人の姿を前に、私の心は不思議と静まり返った。
「そう、それでいいわ」
最後に乾いた笑みを浮かべ、私は決別を告げる。
今日で、私たちは正真正銘の赤の他人。













