4、

後藤正樹視点

もう我慢の限界だった。大股で一歩踏み込み、そのまま腕を振り上げる。

――パァン!

後藤快斗の手にあったミネラルウォーターのボトルを、俺はひっぱたいて弾き飛ばした。

後藤快斗は呆然と固まった。手を宙に残したまま、信じられないものを見るように俺を見上げる。

「兄貴、何すんだよ……」

最後まで言わせなかった。右脚を上げ、やつの脛へ容赦なく蹴りを叩き込む。

手加減はしていない。

「っ……!」

鈍い呻き声を漏らし、後藤快斗はそのままソファシートへ倒れ込んだ。

「人の看病の仕方も分からないのか」

見下ろしながら吐き捨てる。胸が激しく上下していた。

「こんなに熱があるのに、冷たい水を飲ませる気か?」

後藤快斗は脛を押さえ、痛みに顔を歪めた。顔色が青くなったり白くなったりしている。

何か言い返そうと口を開く。だが、結局ひと言も出てこない。

昔からそうだ。

機嫌がいい時だけ蘭を構って、飽きたらその辺に放り出す。

こいつは最初から、蘭を本気で大事になんかしていない。

そんな男が、どうして蘭を手にできる。

さらに二、三発叩き込んでやりたい衝動を、どうにか押し殺した時だった。車のドアのそばで、きゅっ、きゅっと雪を踏む小さな音がする。

「正樹兄さん……」

おずおずとした女の声。

振り向くと、小林優里が出入口に立っていた。手には保温ボトル。蓋はもう開いていて、ふわりと湯気が立っている。

真っ白なダウンジャケットに包まれた小さな顔は、寒さで赤くなっていた。

「快斗さん、さっきは気が動転してて……気づかなかったんです。これ、ぬるま湯です。ちょうど飲める温度にしてきました。蘭にお薬、飲ませてあげてください」

そう言って、彼女はそっとボトルを差し出す。

俺はそのぬるま湯から、今度は彼女の顔へと視線を移した。じっと一度、見据える。

外にいる連中は皆、息を潜めていた。このキャンピングカーに近づくことすらできずにいる。

なのにこいつは、自分からここへ来た。それだけじゃない。こんな短時間で、きちんと温度まで気遣った水を用意してきた。

頭の回る女だ。

腹の内も立ち回りも、後藤快斗みたいな馬鹿よりずっと上だろう。まして、蘭のような真っ直ぐな人間よりも。

「何してる。さっさと来い」

視線を外し、今度は隅で縮こまっている後藤快斗を冷たく睨む。

後藤快斗は恩赦でも出たみたいな顔で慌てて起き上がり、小林優里の手から保温ボトルをひったくるように受け取った。

「そ、そうだ、薬だ。まず薬飲ませないと」

ボトルを持ったまま、蘭のそばへにじり寄る。そして俺の方へ手を出した。

解熱剤を求めて。

俺は指先で二錠の薬をつまんだまま、胸の奥で荒れ狂う衝動を押さえつけていた。

いっそこのまま後藤快斗を車外へ蹴り落とし、俺自身の手で蘭に薬を飲ませたい。

だが、できない。

無理やり感情を飲み込み、手の中の錠剤を後藤快斗の掌へ放る。

「飲ませろ」

後藤快斗は何度も頷いた。

慎重に蘭のうなじへ手を差し入れ、半身を自分の胸にもたれかからせる。

蘭は高熱で意識が朦朧としているのか、眉をきつく寄せたまま、青白い唇をわずかに開いていた。掠れた、無意識の呻きが漏れる。

後藤快斗は薬を口に含ませ、唇元へボトルを寄せる。少しずつ傾けながら、優しく声をかけた。

「蘭、いい子だから。飲み込め……少し水飲んで、ほら」

温い水が蘭の口角からつうっとこぼれ落ちる。後藤快斗は慌てて袖でそれを拭った。

俺は半歩離れたところに立ったまま、コートのポケットへ両手を突っ込んでいた。

爪が掌に深く食い込む。

その痛みだけが、どうにか顔の無表情を保たせてくれていた。

弱々しくあいつの胸にもたれかかる蘭を見ているだけで、後藤快斗の手がその頬に触れるのを見ているだけで、心臓が見えない手に鷲掴みにされる。

痛い。息ができないほどに。

銃弾の飛び交う中も潜ってきた。生と死の境目だって何度も踏んできた。

それでも――蘭の隣のこの席だけは、俺には座れない。

「ごほっ、ごほっ……」

蘭が二度ほどむせ、ようやく薬を飲み込んだ。

そのまま力なく身体がずるりと沈みかけ、後藤快斗が慌てて腕に力を込める。蘭を抱きとめるように、きつく引き寄せた。

「兄貴、薬、飲んだ」

後藤快斗が顔を上げる。叱られた子どもが、必死で許しを乞うみたいな目だった。

「俺の車に移すぞ」

冷たく言い捨て、俺は散らばった救急箱を手早く拾い集める。

「このポンコツじゃ暖房が死んでる。このままここにいたら、本当に凍えるぞ」

「わ、分かった。兄貴の車に行く」

後藤快斗は腰を落とし、蘭の膝裏と背中へ腕を回した。そのまま横抱きに抱え上げる。

蘭に掛かっていた毛布が半分ずり落ち、細い足首が覗いた。

俺はすぐに歩み寄り、身を屈めて毛布を拾う。外気に晒されたその肌を隠すように、丁寧に掛け直した。

「行くぞ」

救急箱を提げ、俺が先にキャンピングカーを降りる。

外ではまだ雪が降り続いていた。キャンプ場は水を打ったように静まり返っている。

十数人いた男女は、まだ焚き火のそばに固まったままだ。誰ひとり、声を出せないでいる。

後藤快斗が蘭を抱いたまま、その後ろをついてくる。深く積もった雪を踏むたび、ぎゅっ、ぎゅっと重い音が鳴った。

向かう先は、キャンプ場の中央を抜けた先。入口近くに停めてある俺のオフロード車だ。

その連中のそばを通り過ぎようとした時だった。人垣の中から、金髪に染めた男がひとり、ぬっと前へ出てくる。

普段から後藤快斗に媚びてつるんでいる小物だ。場が収まったと思って、愛想でも売りに来たのだろう。

「快斗さん」

両手をこすり合わせながら、へらへらと取り繕った笑みを浮かべる。

「早く姉さん、病院に連れてってあげてくださいよ。やっぱ彼女が一番っすよね。今度また、俺らで酒おごって埋め合わせしますんで」

静まり返った雪の夜に、その媚びた声だけがやけに耳についた。

彼女が一番。

先を歩いていた俺の足が、ぴたりと止まる。軍用ブーツが雪面に深く沈み、そこに黒い穴を穿った。

風が雪を巻き込み、頬を叩く。

冷たさが、胸の奥からじわじわと広がっていく。

その言葉は、鈍い刃物みたいに心臓へ突き刺さった。抉るように、何度も。

……そうだ。

蘭は、後藤快斗の恋人だ。

具合が悪ければ、そいつが看るべきだ。

傷ついたなら、そいつが慰めるべきだ。

そして俺――後藤正樹は。

この三人のどうしようもない縺れの中で、最初から最後まで、嫉妬する資格すら持たない傍観者でしかない。

俺にできるのは、せいぜい後始末だ。

夜更けの静けさの中で、陽の当たらないこの感情を、ひとりで呑み下すことだけ。

「黙れ」

それだけを、低く落とす。

金髪の男の顔から笑みが一瞬で消えた。首をすくめ、後ずさる。もう何も言えない。

俺はオフロード車の後部座席のドアを開けた。車内では暖房を入れっぱなしにしてある。ぬくもりがふっと流れ出し、春みたいに温かかった。

「乗せろ。丁寧にな」

後藤快斗が慎重に蘭を本革シートへ横たえる。

俺は助手席に置いてあったブランケットを取り、もう一度、蘭の身体へしっかり掛け直した。

蘭の眉間の皺が、ようやく少しだけほどける。呼吸もさっきより穏やかになっていた。

後部座席のドアを閉め、俺は運転席へ回る。

ドアに手をかけたところで、ふと振り返った。雪の中で手をこすり合わせている後藤快斗を見る。

「乗れ」

今夜の借りは、蘭の熱が下がってから、ゆっくり後藤快斗に返してもらう。

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