6、
後藤正樹視点
廊下の壁灯が、くすんだ黄の光を落としていた。伸びた俺の影が、やけに長い。
半ば開いたままの病室の扉の外で、俺はポケットの中の金属製ライターを強く握り締めていた。
隙間から見える室内では、後藤快斗が蘭の手を包み込み、自分の頬に押し当てている。
顔じゅう後悔に染めて、もう二度とこんなことはしないと、何度も何度も繰り返していた。
そんな台詞、俺自身もう聞き飽きている。蘭がまだ信じるかどうかも、分からない。
あれは俺の実の弟だ。
そして、蘭をこんな目に遭わせた元凶でもある。
扉を押し開けて、あいつの襟首を掴み、この部屋から叩き出したい。
そして、もともと俺がいるべきだった場所に座りたかった。
だが、足は鉛でも流し込まれたみたいに重く、その場に縫い留められて動かない。
いつだって冷静で、自制を失わない後藤正樹。
こんなところで、みっともない嫉妬ひとつで、両家の顔を潰すわけにはいかなかった。
深く息を吸い、手を上げる。指の関節で、扉を二度、こつこつと叩いた。
室内の二人が振り向き、驚いたように俺を見る。
「蘭の熱が下がったら、俺に連絡をくれ」
声は淡々としていて、自分でも何の感情も乗せていないように聞こえた。
返事を待たず、俺は踵を返し、そのまま大股で階段のほうへ向かった。
下へ降りると、白川のおじさんとおばさんが、まだ一階のリビングで待っていた。俺の姿を見るなり、慌てて立ち上がり、何度も礼を言ってくる。
当たり障りのない言葉を二、三返し、泊まっていってほしいという申し出は丁重に断った。
それから別荘の玄関扉を押し開ける。
雪を含んだ風が、一瞬で襟元へ流れ込んできた。
冷たい。
だが、そのくらいがちょうどいい。頭を冷やすには。
オフロード車の脇まで歩いても、すぐにはドアを開けなかった。
凍えるような車体に背を預け、さっきから握っていたライターをポケットから取り出す。もう片方の手で煙草を一本咥え、火を点けた。
ぼっと小さく火が立ち、目の前を舞う雪片を照らし出す。
顔を寄せて火を移し、深く吸い込む。ひりつく煙が気管を焼き、肺の奥まで落ちていった。
俺は顔を上げ、吹き荒れる雪の向こう、二階の明かりが点いた窓を見た。
暖かな黄の灯りが、風雪に滲んでぼやけている。
蘭はあそこにいる。
熱に浮かされてベッドに横たわり、その傍にいるのは、あいつを傷つけることしかできない後藤快斗だ。
どうしても、昔のことを思い出す。
子供のころ、蘭は快斗を自分の病床に近寄らせなかった。
あのころの蘭は、今よりもっと身体が弱かった。季節の変わり目になるたび熱を出していたし、二つの家は同じ敷地内で暮らしていた。
蘭が倒れると、誰が宥めても駄目だった。薬を飲むのすら嫌がった。
そんな時、あいつはいつも、うさぎのぬいぐるみを抱えて俺の部屋の前まで来た。
「正樹兄ちゃん、くるしい……」
袖をきゅっと掴み、熱で真っ赤になった小さな顔を見上げて、縋るような目を向けてきた。
俺が錠剤を砕き、甘い水に混ぜ、匙で少しずつ飲ませてやると、蘭は素直に飲み込んだ。
あのころは、確かに俺を頼っていた。
具合が悪くなった時、無意識に探す相手は、いつだって俺だった。
いったい、いつから変わった。
陸川家の祝宴で、酔った快斗が蘭に口づけた時か。
それとも、快斗がバイクに乗れるようになって、蘭を山の上へ連れ出し、星を見せ、海辺で花火を見せるようになってからか。
気づいた時には、蘭は俺を遠ざけるようになっていた。
その瞳に映るのは快斗だけで、俺に向けられるのは礼儀と距離だけ。
その落差にも、その痛みにも、俺は耐えきれなかった。
だから軍に入った。
いつか自分の怒りと嫉妬を抑えきれなくなって、快斗も、蘭も傷つける前に、遠くへ逃げた。
今夜だってそうだ。
吹雪の中を飛ばしてキャンプ場まで駆けつけて、蘭から返ってきたのは、たった一言。
「ありがとうございます、正樹兄さん」
血は流れない。
それでも、ひどく痛む。
蘭の中で俺は兄さんだ。
あいつの後始末を引き受ける家族であって、恋愛の相手として見られることはない。
煙草の火がフィルター近くまで燃え、じりっと人差し指を焼いた。
我に返り、吸い殻をゴミ箱の縁に押しつけて揉み消す。そのままドアを開け、運転席に乗り込んだ。
車内には、まだわずかに暖房の名残があった。
後部座席には、蘭の身体にまとわりついていた、あの淡い甘い香りが残っている気がした。
自分でも反吐が出るほど、異常だと思う。
それでも俺は、その残り香を深く吸い込んだ。
熱で上気した蘭の頬が、頭から離れない。
少し開いた唇。
目尻に滲んだ涙の跡。
シートに凭れ、寄る辺なく弱り切っていた姿。
そのどれもが、脳裏で別の意味を帯びていく。
不意に、下腹の奥を熱が駆け上がった。
予兆なんて何ひとつなく、衝動だけが唐突に来た。
俺は強くハンドルを握り込む。重く荒い呼吸が、密閉された車内に反響し、次第に速くなる。
シートに残るわずかな香りが、今は火種みたいだった。
胸の奥底に押し込めてきた劣情へ、一気に火を点ける。
「後藤正樹……てめえは本当に、どうしようもない屑だな」
歯を食いしばって吐き捨て、右の拳をセンターコンソールへ叩きつけた。
鈍い痛みが関節に走る。皮膚が裂け、血がにじんだ。
その痛みで、ようやく少し理性が戻る。
背中は冷や汗でびっしょりだった。シャツが肌に貼りついて、ひどく気持ち悪い。
顔を上げ、ルームミラーを見る。
映った俺の目は真っ赤に充血し、乱れた前髪が眉骨にかかっていた。普段の冷静さもストイックも何もない。ただ見苦しく、みじめだった。
上の窓からは、まだ暖かな光が漏れている。
蘭はあの中にいる。
さっき測った時、熱は39.8℃あった。
少しは下がったのか。後藤快斗という間抜けに、まともに看病ができるのか。
そして、その蘭に二十年以上も兄さんと呼ばれてきた男が、車の中に隠れて、病に伏したあいつの脆い姿に欲情している。
強烈な自己嫌悪が、一気に押し寄せた。
汚い。
自分でさえ日の当たる場所に出せないこの感情は、蘭にとっては、ただむき出しの侮辱でしかない。
蘭は身体こそ弱いが、芯は強い。
あの芸術品を生み出す手も、敏く澄んだ心も、こんな下劣な妄想の中で穢していいものじゃない。
たぶん蘭は、俺を兄のように思っている。
少なくとも、俺を見る時の目に警戒はない。澄んでいて、まっすぐだ。
もし、その兄の胸の内に何があるのか知られたら――。
その先を考えることすら、俺にはできなかった。
俺は乱暴にドアロックを外し、すべての窓を下ろした。
外では吹雪が激しさを増していた。冷気と雪が一気に車内へなだれ込み、刺すような寒さが腹の底の熱をようやく押さえ込んでくれる。
エンジンをかけ、白川家の別荘を出る。
暖かな明かりの宿るあの窓を一度だけ見た。
恋人になれないなら、それでいい。これからも、蘭の目に映る頼れる兄さんでいればいい。
そうしている限り、俺はあいつのそばにいられる。
だが、市街地へは戻らなかった。
別荘を出て500メートルも行かない、街灯のない曲がり角で、俺はブレーキを踏み込んだ。
ここなら白川家の門からは見えない。
それでも、別荘二階のあの窓枠だけは、かすかに視界に入る。
エンジンを切り、ライトも落とす。
オフロード車は、たちまち真っ黒な雪夜に溶け込んだ。
1時間、2時間――。
灰皿には吸い殻が山のように溜まり、車内の煙は喉を刺すほど濃くなっていた。
蘭の熱は下がったのか。
あの馬鹿は、ちゃんと世話をしているのか。
答えの出ない問いがいくつも頭の中をぶつかり合い、ずきずきと頭痛まで呼び込む。
スマホの上に手を浮かせ、何度も快斗へ電話をかけようとした。
そのたびに、無理やり手を引っ込める。
駄目だ。
後藤正樹。
お前は何の立場で、この電話をかける。
兄でしかないくせに。
シートにもたれ、痛む目を閉じる。
もし今夜、蘭を北峰へ連れていったのが俺だったなら――。
いや、そもそも俺は、あんな場所へあいつを連れていかない。
蘭が雪を見たいと言うなら、山頂に全面ガラス張りの恒温室でも造る。
20℃を超える暖かな部屋に座らせ、熱い茶を飲ませながら、外の吹雪を眺めさせる。
少しの冷えすら、蘭には触れさせない。
なのに蘭が好きになったのは、吹雪の中を手を引いて駆け回る後藤快斗だった。
夜はさらに更け、雪もいっそう激しくなる。
全身の感覚はとうに鈍っていた。指先もかじかみ、煙草を挟むのすらつらい。
その時、メーターパネルの上に置いたスマホが、不意にぶるっと震えた。
後藤快斗からのメッセージだ。
「兄貴、蘭の熱は下がった。今はぐっすり寝てる。木下先生も大丈夫だって」
短いその一文を、俺はたっぷり30秒は見つめていた。
無事なら、それでいい。
ルームミラーに映る自分の顔は、ひどいものだった。
目の下は血走り、顎には青い無精髭まで覗いている。
これを戦友に見られたら、半年は笑いものだろう。
スマホのロックを外し、片手でたった一言だけ打ち込む。
「了解」
送信。
それからスマホを助手席へ放り投げた。
もう一度顔を上げる頃には、目の奥の感情はすべて引っ込めていた。
そこにいるのは、隙ひとつ見せない、冷徹な少佐だけだ。
キーをひねる。
エンジンが低く唸りを上げる。
シフトを入れ、サイドブレーキを下ろし、アクセルを踏む。
オフロード車は路面の凍りをがりがりと砕きながら、明け方最初の薄明かりへ向かって、二度と振り返ることなく走り去っていった。
