7、
白川蘭視点
喉がひりつくほど乾いて、重たいまぶたをどうにか持ち上げた。昨夜の吹雪は、もう止んでいる。
身体は汗でじっとりしていて、熱も――ようやく引いたらしい。
だるい腕を動かそうとした瞬間、右手が何かに押さえつけられているのに気づいた。
首だけそっと傾ける。
後藤快斗が、ベッドの縁に半分膝をつき、半分うつ伏せになったまま眠っていた。昨日のままの服。上着はくしゃくしゃで、顎には青い無精ひげがうっすら浮いている。
ずっと、彼はそういう人だった。面倒なことを起こしては甘えて逃げて、誰かに世話を焼かれるのが当たり前の御曹司。
それが――一晩中、ここを離れずに私を見ていた。
胸の奥に溜まっていた悔しさも苛立ちも、いつの間にか霧みたいに散っていく。
指先が、きゅっと縮こまった。
たったそれだけで、後藤快斗のまぶたが跳ねて開いた。
「蘭! 起きたのか? まだつらい?」
慌てた手が私の額に伸びる。掌には薄いまめのざらつき。
「……熱、下がってる。よかった……!」
深く息を吐いたかと思うと、彼は力が抜けたみたいに椅子へどさりと落ちた。
二十年の付き合いで、こんなふうに取り乱す快斗を見たのは初めてだ。
昨日の私――相当、怖かったんだろう。
笑って何か言おうとした、その瞬間。
ぶるぶる、とスマホが激しく震えた。
画面には「翔太」。
後藤快斗は一瞥しただけで眉をきつく寄せ、通話を切ると、端末を裏返してテーブルに伏せた。
「今日、バンド……リハじゃないの?」
声はまだかすれていて、自分でも驚くほど疑うみたいな口調になった。
快斗は視線を一瞬逸らし、ぐしゃぐしゃの髪を掻く。
「行かねえ。リハなんかより、お前のほうが大事だ。今日はここにいる」
言い切る声は強いのに、彼の指先は落ち着かなくズボンの縫い目をいじっていた。
自由と好きなことが、何より大切な人。そんな快斗が一晩も張りついていた――それだけで、十分だ。
「行ってきなよ」
枕に背を預けて、私は笑った。平気なふりの、薄い笑み。
「行かねえ!」快斗が声を荒らげる。「蘭、俺、昨日マジで最低だった。お前、死ぬとこだったじゃん。追い出すなよ……埋め合わせさせてくれ、頼む」
私は首を横に振る。
「追い出してない。……一晩、看てくれた。それで充分」
目を見て、少しだけ声を柔らかくする。
「リハ、行って。みんな待ってるでしょ」
快斗が固まって、疑うように私を見た。
「……ほんとに?」
「ほんと」
乾いた唇を軽く舐める。
「ただし、一個だけ約束して」
「言え! 百個でも聞く!」
「午後、戻るとき。バニラアイス、買ってきて。甘いの食べたい」
快斗の目がぱっと明るくなる。さっきまでの疲れが嘘みたいに消えた。
身を乗り出し、乾いた私の唇にちゅ、と軽く口づける。
「待ってろ! 午後、街で一番うまいアイス連れてくる!」
言い終える前に、彼はばたばたと部屋を飛び出していった。
閉まるドアを見つめながら、私は苦く笑う。布団を引き寄せて頭までかぶり、目尻を伝うものを隠した。
夜8時。
窓から忍び込んだ月明かりが床に細い線を落としている。
母にきつく言われてベッドで休まされ、私は次の彫刻の線を頭の中で組み立てていた。そこへ、寝室のドアがそっと開く。
隙間から、後藤快斗が泥棒みたいに上半身だけ覗かせた。
部屋に私しかいないと確認すると、彼はするりと入り込み、反手で鍵をかける。
「白川おばさん、階下のリビングでテレビ見てる。裏庭の使用人用の階段から上がってきた」
声を潜めているのに、悪戯が成功した子どもみたいな弾みが混じる。
彼は大きなダウンを脱ぐと、内ポケットから小さな紙箱を取り出し、得意げに差し出した。
「ハーゲンダッツ。バニラ」
ベッドの端にどかっと座り、包みを破って木の小さなスプーンを引き抜く。
「退熱したばっかだし、食いすぎはダメだろ。いちばん小さいのにした。ちょっとだけな」
一匙、すくう。木のスプーンの先で、アイスが小さな山になる。それが私の唇の前まで運ばれた。
ひんやりした感触。濃いミルクの香りと、バニラの甘さが舌の上でほどけていく。
一昼夜、苦く乾いていた口の中に、やっと甘いものが戻った。
「うまい?」
「……うん。おいしい」
快斗は私を見つめたまま、喉仏が上下した。
視線が、目から唇へとゆっくり落ちる。そこには、溶けかけた白いアイスが少しだけ残っていた。
次の瞬間、彼が身を屈める。
熱を帯びた気配が一気に近づき、唇が重なった。薄いミント煙草の匂い。
器用に歯列をこじ開けられ、舌先が私の口内の甘さをさらっていく。
まつげが震え、反射みたいに目を閉じた。
嵐みたいなキス。熱い唇が、肌を焼きそうで。
柔らかな舌が、息を奪って――溺れそうになる。
快斗の呼吸が荒くなり、身体の熱が伝わってくる。手つきまで、落ち着きを失っていった。
抱きしめられる力が強くなる。いつの間にかシーツが腰までずり落ち、白い肌が大きく露わになっていた。
彼はそのまま私を押し倒し、覆いかぶさる。キスが、さらに深くなる。
「快斗……だめ……」
喘ぐ声で、必死に抵抗しても。
私の力なんて、彼にとってはくすぐったい程度だ。
唇が頬を、首筋を、ゆっくりと下へ這っていく。
「快斗……やめて……」
唇を噛む。声は蚊の鳴くように小さい。
「どうした、つらい?」彼が顔を上げた。瞳の奥は熱で濡れている。「蘭、大丈夫。……怖がるな。優しくする」
そう囁いて、また顔を埋めようとした。
「……だめ」
熱い息。濃い男の匂いが、鼻腔を満たす。
身体がぞくりと震え、頭の中が真っ白になった――そのとき。
カチャ、カチャ。
ドアの鍵が、外から二度回された。
心臓がひゅっと縮む。私は慌てて快斗を押しのけた。
快斗も跳ね起き、顔色を変えてドアを見た。
ドアが開く。
そこに立っていたのは、後藤正樹だった。
きっちりとした常服の軍装。肩章は張り、線は冷たいほど正確で、立ち姿は松みたいに真っすぐ。
心臓がまた一拍、抜けた。
手には、包装の整った輸入の栄養補助食品が二箱。深い目が、私と快斗を静かに捉える。
正樹の視線が、私の乱れた呼吸と腫れた唇に一秒だけ止まり――鋭く凍り、すぐに消えた。
そして、快斗の手に残るアイスの箱へ。
部屋の温度が、目に見えないほど下がった気がした。
「に、兄さん……」
快斗がしどろもどろに立ち上がる。
正樹は答えない。長い脚で部屋に入り、扉を閉めた。
ベッド脇まで来ると、栄養品を低いテーブルに置く。
「快斗」
淡々とした声。なのに、圧がある。
「病人の看病が、それか」
「昨日、40度近い熱が出てた。今日は下がったばかりだ。その状態で、冷たいものを食わせるのか」
快斗は縮こまり、耳まで赤くなる。
「兄さん、俺が悪い。蘭を慰めたくて……アイス買ってきた。軽率だった」
頭を下げる姿は、叱られた小学生そのものだった。
その様子が痛くて、私は快斗の袖を指先で引く。正樹の冷たい瞳から逃げずに言った。
「兄さん、責めないで」
「買ってきてって言ったのは私。口の中が苦くて……甘いのが食べたかっただけ。快斗のせいじゃない」
言い終えた瞬間、正樹の顎の線が、きつく張り詰めるのが見えた。
快斗は、私が庇ったことに救われたみたいにこちらを見て、小さく頷く。
私も「大丈夫」と目で返す。
ふたりだけの、言葉にしない合図。
それが――一部始終、正樹の目に落ちた。
空気が、さらに重くなる。
正樹は私を見つめていた。
いつもは深い井戸みたいに動かない瞳の底で、私には読み切れない何かが渦巻いている。冷静という仮面を、内側から引き裂いて飛び出してきそうな――そんな感情が。
