9、

白川蘭視点

「そんな薄着で、こんなとこで風に当たって……」

後藤正樹の声は低く掠れていて、怒っているのかどうかも判然としない。けれど、その深い視線だけは、凍えて血の気を失った私の顔に釘づけだった。

「わ、私……」

口を開いた途端、喉がからからで、声にならなかった。

彼は言い訳を待たない。視線を落として、赤くなった私の指先を見た。

後藤正樹が一歩近づく。長くて力のある指が、そのまま私の手の甲を覆い――スーツケースの取っ手を、いとも簡単に奪い取った。

掌が熱い。熱すぎて、指先がびくりと縮む。

「行くぞ」

それだけ言って、背を向けると大股で外へ歩き出した。

コートに包まれた私の周りを、彼の匂いが糸みたいに絡め取っていく。

頭の中はぐちゃぐちゃなのに、脚だけが勝手に彼の背中を追った。

黒いマイバッハが、音もなく路肩へ滑り込み、私たちの前でぴたりと止まった。

黒いスーツの運転手が素早く降り、うやうやしく後部座席のドアを開ける。

後藤正樹は片手でスーツケースを運転手へ渡し、もう片方の手を車のルーフに添えた。

「乗れ」

車内は暖房がよく効いていて、レザーシートは柔らかい。

私は隅に縮こまり、後藤正樹が反対側から乗り込んでくるのを見守った。

ドアが閉まる。ぱたん、と外の喧騒が切り落とされ、世界が静まった。

後藤正樹は背もたれに身体を預け、長い指で眉間をつまむ。薄暗い灯りの中、横顔の輪郭だけが鋭く浮かんでいた。

「兄さん、どうして南城に?」

ようやく声を取り戻し、私は小さく沈黙を割った。

「休みが残ってた。支社の用を片づけに来た」

目を閉じたまま、薄い唇が短く吐き捨てる。

また、車内が沈黙に沈んだ。

どうして空港で会ったのか。

後藤快斗が私を放り出したこと、兄さんは知っているのか。

聞きたいのに、疲れのにじむ眉と目元を見た瞬間、言葉が喉の奥に引っ込んだ。

車は夜の街を二十分ほど滑るように走り、やがてひときわ目立つランドマークの前で停まった。

都心部の、一流の五つ星ホテル。

ドアマンがドアを開ける。私は後藤正樹の後ろについて、金色に輝くロビーへ入った。

後藤正樹はまっすぐフロントへ行き、黒い財布からブラックカードを一枚抜き取って、フロントマネージャーへ差し出した。

「最上階のスイート。あと一部屋」

カードを見た瞬間、マネージャーは職業的な笑みを整え、腰を低くした。

「かしこまりました、後藤様。手続きいたします。恐れ入りますが、こちらのお客様の身分証を拝見できますでしょうか」

私は慌ててバッグを探り、身分証を差し出した。

二分ほどで、烙印の入ったルームキーと身分証が戻ってくる。

後藤正樹はキーを受け取り、そのまま私の手に押し込んだ。

「数日はここにいろ」

深い視線がまっすぐ私を射抜く。

「田村さんの車は地下に入れてある。この先は、数日間あいつが送迎だ」

田村さん――さっきのマイバッハの運転手だ。

私は固まった。カードキーを握る指が、きゅっと強張る。

見知らぬ街で、後藤快斗が私に残したのは、繋がらない電話と、どこも満室のホテルだけ。

なのに後藤正樹は、余計な説明ひとつせず、安心できる部屋と、抜け目ない段取りを私の手の中に押し込んでしまった。

「兄さん……そこまでしてもらうの、悪い」

俯いた途端、鼻の奥がつんと痛んだ。

「兄さんって呼ぶなら、そんな無駄口は言うな」

声色は相変わらず冷たい。

「さっさと上がって休め。俺は用がある」

そう言い残して、彼はそのままエントランスへ向かった。

背筋の通った背中が、すぐに扉の向こうへ消える。

私はその場に立ち尽くし、カードキーをぎゅっと握った。

急に、目の奥が熱くなる。

スイートは床暖房が入っていて、温度がちょうどいい。

引きずるような足取りでリビングに入ると、まず目に飛び込んできたのは、窓際のダイニングテーブルだった。

黒胡椒のステーキ。横にはアスパラガス。

白い磁器の小さなポットには蓋があり、開けると湯気がふわりと立った。蜂蜜とレモンの香り――ホット・トディ。

ホット・トディは、普段私がいちばん好きな飲み物だ。身体を温めて、喉も楽になる。

ガラスのボウルには、チェリーとキウイが食べやすく切られ、きっちり並べられていた。

私の好きなもの。

そして、弱った胃でも、今ならなんとか食べられるもの。

喉が詰まって、息がしづらい。

――これが、後藤家の兄弟。

同じ屋根の下で育ったはずなのに、どうしてここまで違うのだろう。

後藤快斗は、わざわざ南城まで私を呼びつけておいて、氷点下の風の中に放り出せる。

軍隊にいる後藤正樹は、出張の合間に、顔色ひとつ変えず手配を整え、私が風邪をひきやすい体質まで織り込んでいた。

昔なら、後藤快斗から連絡が来ないだけで焦って泣いて、まともに食事なんて喉を通らなかったはずだ。

でも今は違う。

私は静かに椅子を引いて座り、ナイフとフォークを取った。

ちょうどいい温度のミディアムレアを、少しずつ切り分けて、ゆっくり平らげる。

それからホット・トディを持ち上げ、息もつかずに飲み干した。

温かな液体が胃へ落ちていき、身体の奥に残っていた最後の冷えまで溶かしていく。

浴室へ行き、熱い湯に身体を沈める。ふう、と息が漏れた。

疲れがほどけていく。

シルクのパジャマに着替え、ベッドにもたれて両親へLINEで無事を送る。

それを終えてから、私は画面に表示された後藤正樹の、真っ黒なアイコンをじっと見つめた。

指がキーボードの上で、長い間止まる。

最後に打ち込んだのは一行だけ。

「兄さん、ありがとう。すごく美味しかった」

送信。

画面が暗くなる前に、すぐ返事が来た。

「早く寝ろ。具合が悪かったら、いつでも電話しろ」

余計な挨拶もない。後藤快斗のことも聞かない。

けれど、この短い文だけで、胸の奥で張りつめていたものがすとんと落ちた。

スマホをマナーモードにし、ラベンダーの香りのする布団へ潜り込む。

予想外に、その夜は驚くほどよく眠れた。

目を開けると、遮光カーテンの隙間から白い光が差している。もう朝だ。

寝返りを打って、枕元のスマホを探る。

画面が点いた瞬間、未着信とメッセージの通知が、ぎっしりと雪崩れ込んできた。

不在着信は十三件。全部、後藤快斗。

LINEも彼のメッセージで埋め尽くされている。

「蘭、ごめんごめん! 昨日リハの機材にトラブル出て、みんなで復旧してた! 俺のスマホ、電池切れで勝手に落ちてさ!」

「着いた? どこに泊まってる?」

「ほんとにわざとじゃないんだ。電話出てよ」

メッセージは途切れ途切れに、午前3時まで続いていた。それ以降は、動きがない。

たぶん、言い訳を吐き出して、私から返事が来ないと分かると、そのまま自分だけ眠ったのだろう。

私は枕に背中を預け、静かにその「ごめん」を眺めた。

胸は、何ひとつ波立たない。

こういうことは、何度もあった。

記憶が勝手に引き戻される。十六の頃。

J市の界隈の祝宴で、後藤快斗が酒を飲んで、庭の隅で私を壁に押しつけた。乱暴に、雑に、口づけて。

それ以来、周りが囃し立てて、私たちは「付き合ってる」ことになった。

自然に、流されるままに。

最初のうちは、すっぽかされて、遅刻されて、連絡が途切れるたび、私は怒って泣いて、問い詰めた。

私のこと、本当に大事に思ってるの?――そうやって。

でも彼はいつも眩しい笑顔を作って、低い声で甘く謝るだけ。

それで、結局また同じことを繰り返す。変わらない。

長く続けば、喧嘩すら意味がなくなる。

私は彼のいい加減さに慣れて、わざわざ自分を傷つけるのも馬鹿らしくなった。

今思えば、こんなに長い間、後藤快斗は一度だって、きちんと「愛してる」と言わなかった。

最初から最後まで、幼なじみというだけで私が勝手に期待して、勝手に夢を見ていた――そういうことなのかもしれない。

私はLINEを閉じ、後藤快斗の番号へ電話をかけた。

「申し訳ございません。おかけになった電話は、ただいまお出になりません……」

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