第1章
あの晩、よろめきながらドアを押し開けると、リビングにはすでに青ざめた顔で文広が待ち構えていた。
胃の中が火事になったように熱い。接待の席で飲まされたアルコールが酸となって、内臓を焼き尽くそうとしていた。まともに立っていることすらままならない。
「またそんなに飲んだのか」文広が冷ややかに言い放つ。「自分に家があるってこと、覚えてるのかよ」
私は答えなかった。激痛で目の前が真っ暗になる。
頭にあるのは、棚の中の胃薬のことだけ。一年前、麻耶美が戻ってきてから、この家は変わってしまった。口論をするたび、冷たい言葉を浴びせられるたび、それが胃の腑をかき回すような痛みへと変わっていく。
ふらつく足取りで棚へ向かうと、文広もついてきた。
「そういえば」少しだけ口調を和らげて彼は言う。
「クレジットカードの件は俺のミスだ。凍結されたんじゃなくて、限度額を超えただけだった」
返事はせず、ひたすら薬を探し続けた。
「聞いてんのか」突然、声の温度が下がる。
震える手で薬瓶を掴もうとした瞬間。文広はそれを横からひったくり、ゴミ箱へと投げ捨てた。
「くそっ」彼が鼻で笑う。
「俺が思い通りにならないと、いつもそうやって仮病を使うんだな」
「今日は午後ずっと、接待で飲まされて——」
「酒だと?」私の言葉を遮る。
「麻耶美がどうして入院したか分かってるのか? うつ病だ! 本物の病気なんだよ! お前みたいに、アルコールに逃げてるだけとは違う」
私の中で、何かがプツリと切れた。
「だからクルーザーまで買ってあげたの?」思わず口を突いて出た。
文広は一瞬硬直し、奥歯を噛み締めた。
「あいつには海に出て気分転換することが必要なんだ。治療の一環だっての。なんだ、そんなことまで口出しする気か」
「あれ、何百万もするクルーザーでしょ、文広」
「俺の金だ。どう使おうが俺の勝手だろ」声が荒らげられる。「お前に俺をとやかく言う権利があるのか」
何か言い返そうとしたが、再び激痛が走る。言葉が喉の奥でつっかえた。
文広はふいにトーンを変え、キッチンのカウンターからケーキの箱を手に取った。
「ほら、これ。麻耶美がわざわざお前にって持たせてくれたんだぞ。あいつは本当にお前のことを気にかけてるんだ」
ゆっくりと箱を開ける。
中に入っていたのは、半分食べかけのケーキ。誕生日用のロウソクが焦げた跡がある。そして表面には、砕かれたピーナッツがびっしりと敷き詰められていた。
「これ、あの子の誕生日ケーキの食べ残しじゃない」
文広の顔に気まずそうな色が浮かんだが、それもすぐに消え失せた。
「だからなんだよ。麻耶美の厚意だろ。素直に受け取れないのか」
私は苦笑した。
「彼女の厚意だとしても、あなたは? 私がピーナッツアレルギーだってこと、知らないわけじゃないでしょう」
文広の顔がカッと赤くなる。
「お前はいつもそうだ! そうやって粗探しばかりしやがって!」
立ち上がり、痛みを麻痺させるものを探そうとした。酒棚へ手を伸ばそうとすると、文広が立ち塞がった。
「もう十分飲んだだろ!」
もみ合いになる。ケーキの箱が床に落ち、アイシングが飛び散った。
「なんてことすんだ!」文広が怒鳴る。
彼が力任せに私を突き飛ばす。後ろへ倒れ込み、酒棚に激突した。ガラス瓶が粉々に砕け散り、その破片の一つが私のふくらはぎを切り裂いた。
床に血が広がっていく。
「くそっ……」文広は顔面を蒼白にし、私を抱き起こそうとした。
「わざとじゃ——」
ほんの一瞬、彼の瞳の中に何かがよぎったのが見えた。心配? それとも罪悪感?
だが、それも束の間のことだった。
——
病院で看護師が傷口の処置をしている間、文広はずっと眉間に皺を寄せながらスマホでメッセージを返していた。
彼のスマホケースが目に入る。新しいものだ。黒地に金の縁取り。以前、麻耶美のInstagramのストーリーでまったく同じものを見たことがある。
「新しいスマホケース?」私は尋ねた。
「麻耶美とお揃い?」
文広はバツが悪そうにしている。
「あいつの勧めだよ。落としても割れないって。なんだ、またこんな些細なことでキレる気か」
私は診察台に背を預けた。
「クルーザーも些細なことなの?」
彼の顔がサッと曇る。
「またその話か。麻耶美が写真をアップしたからって、まだ嫉妬してんのかよ」
「あなたの誕生日プレゼントだって言ってたわ」
「だからどうしたってんだ!」声が大きくなる。
「約束したんだよ。あいつが欲しいものは何でも買ってやるって。俺はあいつに借りがあるんだ」
俺はあいつに借りがある。
喉の奥がぎゅっと締まる。
「そう」私は静かに言った。
「そういうこと」
文広は振り返り、私のその落ち着き払った様子に驚いたようだった。
「お前……怒らないのか」
目を閉じ、ひどくなる胃の痛みに耐える。
「怒ってないわ。そのスマホケース、よく似合ってる」
——
看護師が脚の包帯を巻き終え、立ち去り際に心配そうに声をかけてきた。
「奥様、とても顔色が悪いですよ。一度、精密検査を受けられたほうがよろしいかと」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、文広のスマホが再び鳴った。画面には麻耶美の名前が点滅している。
彼はすぐさま通話ボタンを押した。
「どうした」声がたちまち優しくなる。
電話の向こうで、麻耶美が泣いている。
『文広……苦しいよ……もう耐えられない……』彼女の声は途切れ途切れだった。
『あなたが必要なの……お願い……』
文広の顔に焦りが広がる。私とスマホを交互に見比べ、板挟みになっているようだった。
突然、胃の腑を鋭くえぐられるような激痛が走った。くの字に身をかがめると、額から冷や汗がしたたり落ちる。
「文広……」私の声は弱々しくかすれていた。
「もう歩けない……検査に行くの、手伝ってくれない?」
彼はためらった。
『文広!』麻耶美の泣き声がさらに大きくなる。
『本当に無理! もう死んじゃいたい! 早く来て……お願いだから……』
「お願い——」私が口を開く。
「お前は酒の飲み過ぎなだけだろ!」文広が苛立ちをあらわにして私の言葉を遮る。
「あとは看護師がやってくれる。麻耶美のうつ病が発作を起こしたんだ、死ぬって言ってるんだぞ! 俺は行かなくちゃならない!」
そして、彼は一度も振り返ることなく立ち去った。
病院の廊下のベンチに一人取り残され、白ざめた唇で、行き交う人々をただ見つめていた。誰も私に気づかない。
胃の中が突然激しく波打ち、思わず口元を押さえる。吐き気が込み上げてきた。
身を屈める間もなく、目の前が真っ暗になった。
目を覚ますと、病室のベッドの上に横たわっていた。傍らには、険しい表情をした医師が立っている。
「原宮さん」彼は穏やかな声で言った。
「胃に悪性腫瘍が見つかりました。一刻も早い手術をお勧めします」
私は彼を見つめたまま、頭の中が真っ白になった。
「もし経済的に余裕がおありでしたら」彼は言葉を続ける。
「海外での治療も視野に入れてみてください。そちらのほうが成功率は高くなります」
