紹介
夫の文広(ふみひろ)は、初恋の女に豪華なクルーザーを買い与えていた。
その日の夜、麻耶美(まやみ)はSNSに写真をアップした。
『ハッピーバースデー!某氏の太っ腹なプレゼントに感謝〜』というキャプションを添えて。
写真の中の彼女は、ビキニ姿でシャンパングラスを掲げ、満面の笑みを浮かべていた。
そして、私の元にクレジットカードの通知が届いた――私たちの共同口座は、すでに限度額まで使い果たされていた。
彼を問い詰める間もなく、文広から電話がかかってきた。
「なんでカードを止めたんだ!?麻耶美はうつ病なんだぞ。海に出てリフレッシュする必要があるんだ!お前はもう少し寛容になれないのか!」
昨夜、あなたの会社の契約を取るために、私がどれだけ無理をして死にかけたか。そう伝えようとした。
しかし、彼はすでに電話を切っていた。
その夜遅く、麻耶美はさらに豪華なジュエリーの写真を投稿した。
『やっぱり、分かってくれる人は分かってくれるんだよね』
写真の彼女の指には、私が結婚した時でさえもらえなかったダイヤモンドの指輪が光っていた。
でも、その時の私には、もうどうでもよかった。
なぜなら、私はすでに決めていたからだ。
――このまま、完全に姿を消すことを。
チャプター 1
あの晩、よろめきながらドアを押し開けると、リビングにはすでに青ざめた顔で文広が待ち構えていた。
胃の中が火事になったように熱い。接待の席で飲まされたアルコールが酸となって、内臓を焼き尽くそうとしていた。まともに立っていることすらままならない。
「またそんなに飲んだのか」文広が冷ややかに言い放つ。「自分に家があるってこと、覚えてるのかよ」
私は答えなかった。激痛で目の前が真っ暗になる。
頭にあるのは、棚の中の胃薬のことだけ。一年前、麻耶美が戻ってきてから、この家は変わってしまった。口論をするたび、冷たい言葉を浴びせられるたび、それが胃の腑をかき回すような痛みへと変わっていく。
ふらつく足取りで棚へ向かうと、文広もついてきた。
「そういえば」少しだけ口調を和らげて彼は言う。
「クレジットカードの件は俺のミスだ。凍結されたんじゃなくて、限度額を超えただけだった」
返事はせず、ひたすら薬を探し続けた。
「聞いてんのか」突然、声の温度が下がる。
震える手で薬瓶を掴もうとした瞬間。文広はそれを横からひったくり、ゴミ箱へと投げ捨てた。
「くそっ」彼が鼻で笑う。
「俺が思い通りにならないと、いつもそうやって仮病を使うんだな」
「今日は午後ずっと、接待で飲まされて——」
「酒だと?」私の言葉を遮る。
「麻耶美がどうして入院したか分かってるのか? うつ病だ! 本物の病気なんだよ! お前みたいに、アルコールに逃げてるだけとは違う」
私の中で、何かがプツリと切れた。
「だからクルーザーまで買ってあげたの?」思わず口を突いて出た。
文広は一瞬硬直し、奥歯を噛み締めた。
「あいつには海に出て気分転換することが必要なんだ。治療の一環だっての。なんだ、そんなことまで口出しする気か」
「あれ、何百万もするクルーザーでしょ、文広」
「俺の金だ。どう使おうが俺の勝手だろ」声が荒らげられる。「お前に俺をとやかく言う権利があるのか」
何か言い返そうとしたが、再び激痛が走る。言葉が喉の奥でつっかえた。
文広はふいにトーンを変え、キッチンのカウンターからケーキの箱を手に取った。
「ほら、これ。麻耶美がわざわざお前にって持たせてくれたんだぞ。あいつは本当にお前のことを気にかけてるんだ」
ゆっくりと箱を開ける。
中に入っていたのは、半分食べかけのケーキ。誕生日用のロウソクが焦げた跡がある。そして表面には、砕かれたピーナッツがびっしりと敷き詰められていた。
「これ、あの子の誕生日ケーキの食べ残しじゃない」
文広の顔に気まずそうな色が浮かんだが、それもすぐに消え失せた。
「だからなんだよ。麻耶美の厚意だろ。素直に受け取れないのか」
私は苦笑した。
「彼女の厚意だとしても、あなたは? 私がピーナッツアレルギーだってこと、知らないわけじゃないでしょう」
文広の顔がカッと赤くなる。
「お前はいつもそうだ! そうやって粗探しばかりしやがって!」
立ち上がり、痛みを麻痺させるものを探そうとした。酒棚へ手を伸ばそうとすると、文広が立ち塞がった。
「もう十分飲んだだろ!」
もみ合いになる。ケーキの箱が床に落ち、アイシングが飛び散った。
「なんてことすんだ!」文広が怒鳴る。
彼が力任せに私を突き飛ばす。後ろへ倒れ込み、酒棚に激突した。ガラス瓶が粉々に砕け散り、その破片の一つが私のふくらはぎを切り裂いた。
床に血が広がっていく。
「くそっ……」文広は顔面を蒼白にし、私を抱き起こそうとした。
「わざとじゃ——」
ほんの一瞬、彼の瞳の中に何かがよぎったのが見えた。心配? それとも罪悪感?
だが、それも束の間のことだった。
——
病院で看護師が傷口の処置をしている間、文広はずっと眉間に皺を寄せながらスマホでメッセージを返していた。
彼のスマホケースが目に入る。新しいものだ。黒地に金の縁取り。以前、麻耶美のInstagramのストーリーでまったく同じものを見たことがある。
「新しいスマホケース?」私は尋ねた。
「麻耶美とお揃い?」
文広はバツが悪そうにしている。
「あいつの勧めだよ。落としても割れないって。なんだ、またこんな些細なことでキレる気か」
私は診察台に背を預けた。
「クルーザーも些細なことなの?」
彼の顔がサッと曇る。
「またその話か。麻耶美が写真をアップしたからって、まだ嫉妬してんのかよ」
「あなたの誕生日プレゼントだって言ってたわ」
「だからどうしたってんだ!」声が大きくなる。
「約束したんだよ。あいつが欲しいものは何でも買ってやるって。俺はあいつに借りがあるんだ」
俺はあいつに借りがある。
喉の奥がぎゅっと締まる。
「そう」私は静かに言った。
「そういうこと」
文広は振り返り、私のその落ち着き払った様子に驚いたようだった。
「お前……怒らないのか」
目を閉じ、ひどくなる胃の痛みに耐える。
「怒ってないわ。そのスマホケース、よく似合ってる」
——
看護師が脚の包帯を巻き終え、立ち去り際に心配そうに声をかけてきた。
「奥様、とても顔色が悪いですよ。一度、精密検査を受けられたほうがよろしいかと」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、文広のスマホが再び鳴った。画面には麻耶美の名前が点滅している。
彼はすぐさま通話ボタンを押した。
「どうした」声がたちまち優しくなる。
電話の向こうで、麻耶美が泣いている。
『文広……苦しいよ……もう耐えられない……』彼女の声は途切れ途切れだった。
『あなたが必要なの……お願い……』
文広の顔に焦りが広がる。私とスマホを交互に見比べ、板挟みになっているようだった。
突然、胃の腑を鋭くえぐられるような激痛が走った。くの字に身をかがめると、額から冷や汗がしたたり落ちる。
「文広……」私の声は弱々しくかすれていた。
「もう歩けない……検査に行くの、手伝ってくれない?」
彼はためらった。
『文広!』麻耶美の泣き声がさらに大きくなる。
『本当に無理! もう死んじゃいたい! 早く来て……お願いだから……』
「お願い——」私が口を開く。
「お前は酒の飲み過ぎなだけだろ!」文広が苛立ちをあらわにして私の言葉を遮る。
「あとは看護師がやってくれる。麻耶美のうつ病が発作を起こしたんだ、死ぬって言ってるんだぞ! 俺は行かなくちゃならない!」
そして、彼は一度も振り返ることなく立ち去った。
病院の廊下のベンチに一人取り残され、白ざめた唇で、行き交う人々をただ見つめていた。誰も私に気づかない。
胃の中が突然激しく波打ち、思わず口元を押さえる。吐き気が込み上げてきた。
身を屈める間もなく、目の前が真っ暗になった。
目を覚ますと、病室のベッドの上に横たわっていた。傍らには、険しい表情をした医師が立っている。
「原宮さん」彼は穏やかな声で言った。
「胃に悪性腫瘍が見つかりました。一刻も早い手術をお勧めします」
私は彼を見つめたまま、頭の中が真っ白になった。
「もし経済的に余裕がおありでしたら」彼は言葉を続ける。
「海外での治療も視野に入れてみてください。そちらのほうが成功率は高くなります」
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妊娠を隠して離婚します
九条雅人は彼女の顎を荒々しく掴み、低く唸った。
絢香の頬は屈辱と興奮で真紅に染まったが、その声にはまだ意地が残っていた。「あなたこそ、私に執着しているだけじゃないの?」
雅人は冷酷に鼻で笑った。
「離婚してからどれほど経った? それでもう俺の『ルール』を忘れたか。お前の身体は、今でも俺をこんなによく覚えているくせに。……ほら、咥えろ」
熱を帯び、恐ろしいほどに猛り狂った彼の太いものが、絢香の顔を容赦なく叩いた。
雅人は冷たく笑う。
「俺から離れられるなんて夢にも思うな、絢香。お前は俺だけのものだ」
——
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しかし、彼が桜井陽菜の妊婦健診に付き添い、彼女が少しでも不快な思いをしないよう、見たこともないほどの優しさと甘やかし方で接している姿を目撃したとき、絢香はついに悟った。彼は人を愛せないのではない。ただ、自分を愛していなかっただけなのだと。
絢香は静かに離婚届にサインし、自身の「妊娠診断書」を胸に抱いて彼の元を去った。
だが、絢香が完全に姿を消した瞬間、雅人は狂わんばかりになり、街中を血眼になって彼女を捜し回った。
ついに再会を果たしたとき、雅人の瞳は血走り、その声は掠れていた。
「絢香、俺が悪かった……頼む、俺の元に戻ってきてくれ」













