第2章

翌朝、綾子は病床の前に立ち、離婚届を森川隆人の前に置いた。

隆人はベッドに身を起こしていた。脚にはギプスがはめられ、その目には信じられないといった色が浮かんでいる。

「綾子、何とかすると言っただろう。そんな……そんな無情な真似はよしてくれ」

「無情?」

彼女はその言葉を、ほとんど聞こえないほどか細い声で繰り返した。

「ええ、そうね。私はあまりに無情なのかもしれないわ」

彼女は陽太をドアの外で待たせていた。小さな男の子は折り鶴でいっぱいになった小さなリュックを固く抱きしめ、その瞳には涙が浮かんでいる。

「サインして、隆人」

彼女はペンを彼に差し出した。

「あなたの治療費と保険金は、あなたと悠介に残すわ。私は陽太だけを連れて行く」

「綾子、頼む……」

「サインして」

彼女の声には、拒絶を許さない響きがあった。

隆人が震える手で最後の文字を書き終えると、彼女は書類をしまい、背を向けて立ち去ろうとした。

「待ってくれ」

隆人が不意に彼女の手首を掴んだ。

「せめて、どこへ行くのか教えてくれ」

彼女はそっとその手を振りほどいた。

「もう、どうでもいいことよ。さようなら、隆人」

廊下に出ると、角から悠介が突然飛び出し、二人の前に立ちはだかった。彼の目は真っ赤に充血し、感情が高ぶって声もままならない。

「言っただろ、僕は治療なんていらない、受けないって。安心して、家に迷惑はかけないから」

彼は綾子の袖を掴もうとしたが、彼女はひらりとかわした。

「悠介、そうじゃないの……」

「じゃあどうなんだよ!」

悠介の声は怒りで震え、陽太の方を向いた。

「陽太、お前はどうなんだ?ここ何年も父さんと母さんが仕事で忙しい間、お前と一緒に『仮面ライダー』を見たり、千羽鶴の折り方を教えたりしたのは、母さんより僕の方が多かったじゃないか。僕が病気になったからって、母さんについて行って、父さんと兄さんを捨てるのか?」

陽太は目に涙を浮かべ、答えない。ただ綾子の手を固く握りしめ、無言で自らの選択を示した。

悠介は二人をじっと見つめ、やがて苦痛に満ちた笑い声を上げた。

「は、ははは、そうかよ……」

彼は数歩後ずさり、背を向けて去っていった。その背中は、ひどく孤独に見えた。

福岡へ向かう新幹線の中、陽太は綾子の腕の中で身を縮こませ、絶えずしゃくりあげていた。

窓の外の風景が、猛スピードで後ろへ流れ去っていく。まるで、彼らがこれから遠ざかる過去のように。

「お母さん、お兄ちゃんは僕のこと、嫌いになっちゃうかな?」

陽太が小声で尋ねた。

綾子は涙を必死にこらえ、息子の背中を優しく撫でた。「そんなことないわ。あなたの病気が治ったら、また戻りましょう。きっと分かってくれる」

自分が嘘をついていることは、分かっていた。

福岡に着くと、綾子は売れるものをすべて売り払い始めた。まず祖母から受け継いだ家伝の翡翠のペンダント。それは彼女にとって最も大切な形見だった。次に結婚指輪とネックレス。そして最後には、金目のものはすべて売り払われた。

かき集めた金は五十万円にも満たず、短期の入院費を賄うのがやっとだった。

夜、陽太が眠りにつくと、彼女は日記帳を取り出し、こう書き記した。

『ただ陽太に生きてほしい。もし許されるなら、来年の春には、家族みんなでまた一つになれることを願っています。その頃には、陽太はすっかり元気になり、悠介はT大学に合格し、隆人の脚も治っているでしょう。昔のように、みんなで上野公園へお花見に行くの』


煙草が指先まで燃え尽きていることに、森川隆人は気づかなかった。指に火傷を負って、ようやくはっとした。

石原凛音は何か弁解しようと口を開きかけたが、森川隆人の様子を見て、また口を閉ざした。

「次のページを読んでくれ」

悠介が不意に言った。

森川隆人は震える指で、日記の次のページをめくった。


お母さんが、僕に骨髄をくれることになった!先生が、僕たちの血液型は合うんだって。お金とか手続きとか、いろいろ大変みたいだけど、お母さんは大丈夫だよって言ってた。

手術は来週。ちょっと怖いな。看護師さんは、骨髄移植のときは眠ってるから痛くないって言ってたけど、でも僕はお母さんのことが心配。お母さんの骨から骨髄を取るのはすごく痛いって聞いたけど、お母さんは笑って、これくらいの痛みなんてことないって。

もし父さんと悠介お兄ちゃんがここにいてくれたら、僕が骨髄をもらって眠っている間、お母さんのことを守ってくれるのに。会いたいな。

今日の風鈴は鳴らなかった。父さんとお兄ちゃんは、僕に会いたくないのかな?

——陽太

日記には、陽太の幼い筆跡がうっすらと黄ばみ、紙には涙の痕がいくつか残っていた。

ノートに添えられた写真は、さらに痛ましいものだった。

写真の中の陽太は髪をすべて剃り落とし、ガンダムのロボットがプリントされた帽子をかぶっている。手の甲は繰り返される注射のせいで青黒く腫れあがり、体は極度に痩せこけ、全身、ほとんど皮と骨だけになっていた。

だぶだぶの病衣は、まるでハンガーに掛かっているかのように空虚だった。

それでも彼は、カメラに向かって仮面ライダーのポーズを決め、口角を上げて健気な笑みを見せている。

森川隆人は写真を食い入るように見つめ、松葉杖を固く握りしめた。その指の関節は、力を込めすぎたせいで白くなっている。

彼の表情は、ある瞬間に凍りついたかのように固まっていた。

「ありえない」

森川悠介の声が沈黙を破った。彼は冷笑を浮かべて言う。

「陽太があんなに大事にしてた鯉のぼりのお守りはどうしたんだ?ベッドの枕元に掛かってないじゃないか」

口調は強がっているものの、その声は微かに震えていた。

「合成写真なんかじゃありません。全部、本当のことです」

石原凛音の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。

「陽太くんは化学療法のために、髪を全部剃ってしまったんです」

森川隆人が突然立ち上がり、松葉杖を地面に強く叩きつけた。

「もういい!綾子は演技がうまい、そして一番上手に演じる息子を育て上げたもんだ!」

その声には、苦痛に満ちた怒りが込められていた。

「でも、これは全部本当のことなんです!」

石原凛音は泣きながら反論した。

「綾子さんは、あなたたちを騙そうなんて一度も思っていませんでした!ただ、あなたたちの負担になりたくなかっただけなんです!」

「負担だと?」

森川隆人はほとんど咆哮に近い声を上げた。

「俺はあいつの夫だ!陽太は俺の息子だ!いつから家族の面倒を見ることが負担になった?俺を騙すにしても、もっとマシな理由を考えろ!」

石原凛音は怒りに身を震わせて立ち上がり、風鈴の箱と日記を取り返そうと手を伸ばした。

「あなたたちは、綾子さんと陽太くんがノートに書いているような人たちじゃありません!二人の記憶の中のお父さんとお兄ちゃんは、優しくて、二人を可愛がってくれる人たちだったのに!」

森川隆人は風鈴の箱をひっつかむと、近くのゴミ箱に向かって歩き出した。完全に忍耐の限界だった。

「待って」

森川悠介が不意に声をかけ、父親の手から風鈴の箱を受け取った。

「僕も急に興味が湧いてきた。彼女が作り上げた物語が、どれだけ感動的なものか」

森川隆人は鼻で笑い、背を向けた。

「好きにしろ。金が要るなら綾子本人によこさせろ。こんな作り話で金を騙し取れると思うな」

彼の背中はかつて逞しく、家族に安心感を与えていたが、今はなおも意地を張っているものの、その体はますます薄っぺらくなっていくように見え、松葉杖に支えられた足取りももはや覚束なかった。

森川悠介はベンチに座り直し、ノートをめくり続けた。

風鈴が微風に吹かれて、チリンと澄んだ音を立てる。まるで、亡き者の魂が囁いているかのようだった。

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