重い病の長男を置いて、私は次男と家を出た

重い病の長男を置いて、私は次男と家を出た

渡り雨 · 完結 · 19.5k 文字

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紹介

長男が重い病に侵されていると診断された直後、夫は交通事故に遭った。絶望の淵で、綾子は健康な次男・陽太だけを連れ、二人を置いて家を出た。

それから、五年。

病を克服した長男は若き天才として大学を卒業し、夫もまた奇跡的に再起を果たし、ビジネス界の新星として脚光を浴びていた。

そんな彼らのもとに、ある日、一つの風鈴の箱と一冊の日記が届けられる。

日記の最初のページには、幼い子供の筆跡でこう書かれていた。

「ふうりんがごひゃっかいなったら、ようたはたいいんして、パパと、おにいちゃんと、いっしょにいれる!」

そして、最後の一ページ。そこには、綾子の清らかな筆跡が残されていた。

「さようなら。私は、陽太のそばに行ってきます」

チャプター 1

「森川君、奥さんは今夜いらっしゃらないのかね?」

 東京テクノロジー・イノベーション賞の授賞パーティで、あるビジネスパートナーがシャンパンを片手に森川隆人に問いかけた。

 森川隆人の表情が微かにこわばったが、すぐに自然なものへと戻った。

「家の用事で、来られなくてね」

 彼は短く答えた。

 別の来賓がにこやかに口を挟む。

「悠介君、十三歳でT大に合格した天才少年として、君のお母さんも今日の君の栄誉を誇りに思っているだろうね」

 傍らに立っていた森川悠介は、無表情に視線を逸らし、冷ややかに言った。

「少し失礼します。外の空気を吸ってきますので」

「私も付き合おう」

 森川隆人はすぐさまそう応じ、周囲の人々に頷いてみせた。

「皆様、どうぞお続けください。我々はすぐに戻ります」

 初冬の夜風が寒気を孕んで吹き付ける。親子はパーティ会場の外に立ち、森川隆人はスーツのポケットから煙草を取り出して火をつけ、深く吸い込んだ。

 煙は冷たい空気の中で白い塊となり、ゆっくりと消えていく。

「森川さん?」

 不意に、知らない女の声が背後から聞こえた。

 森川隆人が振り返ると、そこには二十歳を少し過ぎたばかりの少女が、どこかためらいがちな眼差しで立っていた。

「何か用かね?」

 彼は冷淡な口調で尋ねた。

 少女は息を深く吸い込むと、リュックからガラスの風鈴が入った箱を取り出し、彼にそっと差し出した。

 風鈴の箱には一冊の日記が結びつけられており、その表紙には丁寧な字で『陽太の回復カウントダウン』と記されている。

 その筆跡は、彼が誰よりもよく知るものだった——妻である綾子の字だ。

 少女は目を赤くし、震える声で言った。

「私は石原凛音と申します。綾子さんから、これをあなた方にお渡しするよう頼まれました」

 森川隆人の手は微かに震えたが、すぐに平静を取り戻した。彼は口の端を吊り上げて冷笑を浮かべる。

「綾子の何の新しい芝居だ?目的を言ったらどうだ」

 森川悠介も風鈴の箱に気づき、たちまち表情を険しくした。彼は歯ぎしりし、声に憎しみを滲ませる。

「五年も失踪しておいて、まさかずっと福岡に隠れて戻ってこないとはな」

「あの、何か誤解をされているのではないかと。綾子さんと陽太君は……もう何年も前に亡くなっています」

「何だと?」

 森川隆人の表情が一瞬固まったが、すぐにまた無感動なものに戻った。

「なるほど、五年前に悲劇的な死を遂げていたというわけか。実に感動的な筋書きだ」

 彼は冷笑しながら周りを見渡し

「金銭的な補償でも望んでいるのか?」

 石原凛音は信じられないといった様子で目の前の親子を見つめ、怒りを込めて風鈴の箱を取り返そうと手を伸ばした。

「あなた方が必要としないのでしたら、もう結構です。これは彼女たちのお骨と一緒に、福岡にある一族のお墓に納めます」

「せっかく芝居を用意してくれたんだ。最後まで見ないのは、あまりに惜しいじゃないか」

 森川隆人は突如として風鈴の箱を掴み、中から一枚、綺麗に折り畳まれた和紙のノートを取り出した。

 彼はそれを開き、そこに書かれた幼い筆跡を読み始めた。

「今日、福岡市の病院に入院することになった。先生は僕が白血病だって言ってたけど、それが何なのかよくわからない。ママは治るのにすごく時間がかかるから、福岡に引っ越すんだって。パパと兄ちゃんは一緒には来られない。パパはお仕事があるし、兄ちゃんは学校があるから。

 ママがこの小さな風鈴を買ってくれて、風鈴が鳴るたびに、それはパパと兄ちゃんが僕を想ってくれている証拠なんだって教えてくれた。五百回鳴るのを待てば、おうちに帰れるんだって!

 僕は兄ちゃんが大好き。兄ちゃんは日本で一番頭がいい人なんだ!先生が、来年にはもうT大学に飛び級で入れるって言ってた。僕も大きくなったら、兄ちゃんみたいに賢くなりたいな」

 ノートの最後には一枚の写真が貼られていた。六歳の陽太が新幹線の車内で、仮面ライダーの決めポーズを取り、満面の笑みを浮かべている。

 森川隆人の手は微かに震えていたが、その眼差しは依然として冷たいままだった。

「実に感動的だな」

 彼は冷笑した。

「だが、陽太が白血病だった記憶はないが」

 石原凛音が口を開きかけたが、森川悠介がそれを遮った。

「次のを読め」

——

 陽太の白血病が発覚したのは、全くの偶然だった。

 しばらく鼻血が続く時期があり、綾子は彼を病院へ検査に連れて行った。

 医師は採血検査を指示したが、陽太は採血を怖がった。見かねた悠介は自分の腕をまくり、「兄ちゃんが一緒だ。先に兄ちゃんのから採って!」と彼を慰めた。

 その日の午後、医師は検査結果を手に彼らに告げた。陽太には大した問題はなく、ただの貧血なので栄養を補給すればいい、と。しかし、悠介の血液検査の結果に異常が見つかった——彼は白血病だと診断された。

 悠介には骨髄移植が必要で、費用は少なくとも四、五百万円はかかるという。

 綾子は目の前が真っ暗になり、膝から崩れ落ちそうになった。彼女は何度も医師に、何かの間違いではないか、悠介はあんなに健康なのに、と問い詰めた。

「綾子さん、血液検査の結果は明確です」

 医師はきっぱりと言った。

「悠介君はすぐに治療を開始する必要があります。骨髄移植が最善の選択ですが、費用が……」

「いくらかかっても構いません」

 綾子は断固として言った。

「アクセサリーも、家だって売ります。悠介は絶対に治します」

 一方、隆人は狂ったように親類友人に金を借りて回ったが、ことごとく断られた。彼はその帰り道に交通事故に遭い、右脚に重傷を負った。

 同じ日の夜、隆人が救急処置室に運ばれている時、悠介が言った。

「僕は治療を受けたくない。家の経済状況はわかってる。足手まといにはなりたくないんだ」

「だめ!」

 綾子は息子を強く抱きしめた。

「お母さんが何とかするから。どんなことをしてでも、あなたを治してみせる」

 それを聞いた陽太はわんわんと泣きじゃくり、兄の脚にしがみついて離さない。

「兄ちゃん、死んじゃやだ!陽太、アイスも新しいおもちゃも我慢するから、お金は全部兄ちゃんの治療に使って!」

 深夜、綾子は二人の子供を寝かしつけ、隆人が目を覚ますのを待っていたが、再び医師に呼び止められた。

「綾子さん、大変申し訳ありません。こちらで再確認したところ……」

 医師は俯いて書類をめくった。

「お子さんたちの検査結果が取り違えられていました。本当に白血病なのは、悠介君ではなく、陽太君の方です」

 綾子は目眩がして、壁に手をつかなければ倒れてしまうところだった。

 翌朝、綾子は陽太がいなくなっていることに気づいた。

 彼が残した書き置きには、こうあった。

「ママ、陽太は行きます。パパと兄ちゃんと、毎日幸せに暮らしてね」

 昨夜、彼は眠っていなかった。全てを聞いていたのだ。

 綾子は新幹線の駅員室で彼を見つけた。

 陽太は、治療費を兄ちゃんがT大学に行くために残したいと言った。

「兄ちゃんは天才だから」

 彼は真剣な顔で言った。

「来年にはもう大学に飛び級で入れるんだ。パパも脚を怪我しちゃったし、うちには僕を治すお金なんてそんなにないよ」

 綾子は陽太を抱きしめ、声もなく震えた。

 この六歳の子供は、どんな大人よりも物分かりが良かった。

「陽太」

 彼女は囁いた。

「じゃあ、一緒にどこかへ行こうか。お金と保険は、パパと兄ちゃんに残して」

「でも、ママ……」

「これは、かくれんぼゲームよ」

 彼女は彼の顔から涙を拭った。

「あなたの病気が治ったら、おうちに帰りましょうね?」

 陽太はこくりと頷いた。


 森川隆人は最後の一行を読み終えると、フンと鼻を鳴らした。

「妻が漫画編集者だと、こういう利点があるわけだ。いつでも感動的な物語をでっち上げられる」

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「覚えているか?お前は言ったんだ―『死以外に、私たちを引き離せるものはない』とね」

薄暗い光の中、影を落とした彼の顔を見つめながら、
私は現実感を失いかけていた。
「もし...私が本当に死んでしまったら?」