第1章
「時雄、二人三脚はママと組むのよ」
私は息子に向かって手を差し伸べた。
「お母さん、足は遅くないから。一緒に一番を目指してみない?」
六歳になる少年が、私を見上げている。
すっと通った小さな鼻筋。胸元には幼稚園のエンブレムが刺繍された、小さなポロシャツを着ている。
けれど、私に向けられたその眼差しに親愛の色はなく、あるのは憎悪に近しい感情だけだった。
「ママとなんて嫌だ」
時雄の声は大きくはなかったが、周囲の人々に届くには十分だった。
「僕、一人で走るほうがマシだもん」
中腰の姿勢のまま、私の指先がわずかに強張る。
傍らにいた女性保育士が面食らったように目を瞬かせ、慌てて首を振った。
「時雄くん、今日は親子運動会なのよ? ママと一緒にやったほうが楽しいわ。ほら、他のお友達を見てごらん……」
「一人でいい。あの女と走るくらいなら」
彼は眉を寄せ、さも当然の権利であるかのように、心底嫌そうに言い放つ。
「最悪、棄権してもいいし」
あの女。
ママと呼ぶことすら、拒絶している。
私は深く息を吸い込み、こみ上げる窒息感を無理やり胸の奥へと押し込めた。
先生が優しく理由を尋ねる。
「時雄くん、何か嫌なことがあるなら教えて? ゆっくり解決していきましょう」
「パパは僕を一番愛してる。遥香さんも僕を愛してくれてる」
彼は私を睨みつけた。
「愛してないのは、彼女だけだ。彼女は僕を叱ってばかりで、みんなを不幸せにするんだ!」
周囲の保護者たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
先生が気まずそうに笑い声を上げた。
「時雄くん、もう、変なこと言わないの。自分の可愛い子供を愛さないお母さんなんて、どこにもいないわよ」
「変なことじゃないもん」
彼は顎を突き出し、私を見据える。
「お前なんて、世界で一番最低な母親だ!」
時雄の真剣な表情を見て、私は競技への参加を諦めるしかなかった。
先生からは「もっとお子さんとコミュニケーションを取ってください。何か行き違いがあるなら早めに話し合って、誤解を解くように」と諭された。
誤解?
私は自嘲気味に笑う。違う。誤解なんかじゃない。あの子はただ、私を憎んでいるだけだ。
運動会が終わった後、私は時雄を連れてケーキを買いに行くつもりだった。
パートの給料が入ったばかりだ。今回は少し奮発して小さなケーキを買い、それを食べながらゆっくり話をしようと思っていた。
けれど、時雄の姿が見当たらない。
長い時間歩き回り、ようやく彼を見つけたのは公園の黒いベンチだった。
善明が背もたれに半身を預け、捲り上げたシャツの袖口から覗く腕時計が、陽光を浴びて鋭く光っている。
その膝の上には時雄が抱かれていた。彼は大きなカップのアイスクリームを掲げ、口の周りをクリームだらけにしていた。
時雄はとても嬉しそうだった。
「パパは最高だよ。おいしいものを食べさせてくれるもん。あの女とは違うよ。何でもダメって言うし、いつだって生活費が足りないって言うんだ。僕に良くしてくれないのは、きっと僕のことが嫌いだからだね。パパと、あのおばさんだけが僕に優しいんだ」
善明が顔を上げ、私に気づく。彼は失望したように眉をひそめた。
「亜澄、君は本気で時雄を育てられると思っているのか? 私には理解できないよ。なぜ意地になって親権を争う? 君ではあの子に良い環境を与えられない」
彼は冷ややかな目で私を射抜く。
「だが、チャンスをやってもいい。復縁だ。ただし、これからはその性格を改めてもらう。昔のような態度は許さない」
隣にいた遥香が、おっとりと微笑んだ。
「亜澄さん、それはよくないわ。善明さんがどれほど時雄ちゃんを溺愛しているかご存じでしょう? それなのに虐待だなんて……。それに、見てくださいこの服。みすぼらしいわ。誰かのお古なんじゃないかしら」
時雄が、待ってましたとばかりに憤慨して同意する。
「そうだよ! ママが買ってくる服を着ると、いつだって体が痒くなるんだ。アレルギーになりそうだよ! まともな服の一着も買えないなんて、やっぱりお前は世界で一番ダメな母親だ」
善明は口を挟まない。
ただ淡々とその光景を眺めているだけだ。まるで、これこそが彼自身の正しさを証明していると言わんばかりに。
善明の姿を見てからずっと強く握りしめていた拳が、その瞬間、ふっと緩んだ。
全ての疲労、全ての執着が、跡形もなく消え去っていく。
「いいわ」
善明が呆気にとられた。表情が強張る。
「……いい、とは?」
「親権はあなたに譲るわ。すぐに協議書にサインしましょう」
「あなたたち親子三人が、ようやく幸せに暮らせるのよ。祝福するわ」
寒風が吹き抜ける中、時雄と遥香は驚き、そして歓喜した。私が前言を撤回することを恐れたのか、時雄が身を乗り出す。
「パパ、早くサインして! 早く! 僕、一秒だってこの人のそばにいたくない!」
しかし、善明は予想に反して嬉しそうではなかった。不満げに私を睨みつけている。
「どういう意味だ?」
「親権を捨ててまで、自分の非を認めたくないと? 私に復縁を懇願しないのか?」
遥香が、慈愛に満ちた寛大な女性を演じるように口を開く。
「そうよ。私たちはただ、時雄ちゃんに安らかな環境を与えたいだけなの。亜澄さん、あなたが自分を変える努力をするなら、善明さんはチャンスをくださるはずよ?」
私は答えなかった。答えるべき言葉など、もう何も持っていなかった。
「時雄の荷物がまだ家にあるわ。一緒に取りに行きましょう。それで最後にしましょう」
駐車場の最も目立つ場所に、見慣れた黒いロールス・ロイスが停まっていた。
私は助手席のドアへと向かい、手を掛けようとした。だが、それよりも早く遥香がドアの前に立ち塞がった。
彼女は礼儀正しく、それでいて困ったような笑みを浮かべる。
「ごめんなさい亜澄さん、車内が手狭で」
私は彼女を一瞥した。
彼女は大げさに両手を広げてみせる。
「どうしてもと言うなら、歩いてみてはいかが? そのほうが健康的ですし」
彼女は軽やかに言った。まるでそれが、ごくありふれた些細な提案であるかのように。
善明は何も言わなかった。その沈黙は、全てを肯定していた。
やがて、背後でロールス・ロイスの重厚なエンジン音が響いた。
運転手が車を私の背後につけ、速くもなく遅くもない速度で追尾してくる。
私を追い抜くことはなく、かといって距離を開けることもない。
ただ私の背後に張り付いている。見えない鎖で繋がれたかのように。
そして私は、その鎖の先を歩かされるペットだった。
通行人たちはすぐに異様な光景に気づいた。
「あの車、ずっとあの女性の後をつけてないか?」
「また金持ちの変わった求愛行動かしら」
「さあねえ。聞いてみたらどう?」
背後でパワーウィンドウが開く音がして、時雄の不機嫌な声が響く。
「パパ、あいつにもっと早く歩くように言ってよ。遅いんだもん」
遥香がクスクスと笑い声を添える。
「本当ね。亜澄さん、もっとゆっくり歩いたら、私たちサーカスの動物みたいになってしまうわ」
けれど、私は誰よりも理解していた。
これは、人々が噂するような求愛行動などではない。
これは単に、彼が考え出した最新の、私を甚ぶるための拷問に過ぎないのだと。
