紹介
息子は、私が高価なおもちゃを買ってやれないことを、賃貸の部屋に住まわせていることを、そして私が役立たずの女であることを、嫌っていた。
そう言ったかと思うと、息子は私の家庭を壊したあの浮気相手の胸に飛び込み、甘い声で「おばちゃん」と呼んだ。たった一杯のアイスクリームを貰ったというだけで。
元夫は高級車のそばに立ち、冷笑を浮かべて言った。「亜澄、お前が頭を下げて非を認めさえすれば、復縁のチャンスをくれてやってもいい」
この親子が浮かべる、人を見下したようなその顔を見て、私は四年もの間、固く握りしめていたその手を、そっと手放した。
「いいわよ」私は笑いながら、親権放棄の合意書にサインした。「そんなに相思相愛なら、せいぜいご家族三人、末永くお幸せにね」
彼らは私が駆け引きをしているとでも思ったのだろう。まさか、今度こそ私が本気で彼らを捨てたとは、知る由もなかった。
チャプター 1
「時雄、二人三脚はママと組むのよ」
私は息子に向かって手を差し伸べた。
「お母さん、足は遅くないから。一緒に一番を目指してみない?」
六歳になる少年が、私を見上げている。
すっと通った小さな鼻筋。胸元には幼稚園のエンブレムが刺繍された、小さなポロシャツを着ている。
けれど、私に向けられたその眼差しに親愛の色はなく、あるのは憎悪に近しい感情だけだった。
「ママとなんて嫌だ」
時雄の声は大きくはなかったが、周囲の人々に届くには十分だった。
「僕、一人で走るほうがマシだもん」
中腰の姿勢のまま、私の指先がわずかに強張る。
傍らにいた女性保育士が面食らったように目を瞬かせ、慌てて首を振った。
「時雄くん、今日は親子運動会なのよ? ママと一緒にやったほうが楽しいわ。ほら、他のお友達を見てごらん……」
「一人でいい。あの女と走るくらいなら」
彼は眉を寄せ、さも当然の権利であるかのように、心底嫌そうに言い放つ。
「最悪、棄権してもいいし」
あの女。
ママと呼ぶことすら、拒絶している。
私は深く息を吸い込み、こみ上げる窒息感を無理やり胸の奥へと押し込めた。
先生が優しく理由を尋ねる。
「時雄くん、何か嫌なことがあるなら教えて? ゆっくり解決していきましょう」
「パパは僕を一番愛してる。遥香さんも僕を愛してくれてる」
彼は私を睨みつけた。
「愛してないのは、彼女だけだ。彼女は僕を叱ってばかりで、みんなを不幸せにするんだ!」
周囲の保護者たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
先生が気まずそうに笑い声を上げた。
「時雄くん、もう、変なこと言わないの。自分の可愛い子供を愛さないお母さんなんて、どこにもいないわよ」
「変なことじゃないもん」
彼は顎を突き出し、私を見据える。
「お前なんて、世界で一番最低な母親だ!」
時雄の真剣な表情を見て、私は競技への参加を諦めるしかなかった。
先生からは「もっとお子さんとコミュニケーションを取ってください。何か行き違いがあるなら早めに話し合って、誤解を解くように」と諭された。
誤解?
私は自嘲気味に笑う。違う。誤解なんかじゃない。あの子はただ、私を憎んでいるだけだ。
運動会が終わった後、私は時雄を連れてケーキを買いに行くつもりだった。
パートの給料が入ったばかりだ。今回は少し奮発して小さなケーキを買い、それを食べながらゆっくり話をしようと思っていた。
けれど、時雄の姿が見当たらない。
長い時間歩き回り、ようやく彼を見つけたのは公園の黒いベンチだった。
善明が背もたれに半身を預け、捲り上げたシャツの袖口から覗く腕時計が、陽光を浴びて鋭く光っている。
その膝の上には時雄が抱かれていた。彼は大きなカップのアイスクリームを掲げ、口の周りをクリームだらけにしていた。
時雄はとても嬉しそうだった。
「パパは最高だよ。おいしいものを食べさせてくれるもん。あの女とは違うよ。何でもダメって言うし、いつだって生活費が足りないって言うんだ。僕に良くしてくれないのは、きっと僕のことが嫌いだからだね。パパと、あのおばさんだけが僕に優しいんだ」
善明が顔を上げ、私に気づく。彼は失望したように眉をひそめた。
「亜澄、君は本気で時雄を育てられると思っているのか? 私には理解できないよ。なぜ意地になって親権を争う? 君ではあの子に良い環境を与えられない」
彼は冷ややかな目で私を射抜く。
「だが、チャンスをやってもいい。復縁だ。ただし、これからはその性格を改めてもらう。昔のような態度は許さない」
隣にいた遥香が、おっとりと微笑んだ。
「亜澄さん、それはよくないわ。善明さんがどれほど時雄ちゃんを溺愛しているかご存じでしょう? それなのに虐待だなんて……。それに、見てくださいこの服。みすぼらしいわ。誰かのお古なんじゃないかしら」
時雄が、待ってましたとばかりに憤慨して同意する。
「そうだよ! ママが買ってくる服を着ると、いつだって体が痒くなるんだ。アレルギーになりそうだよ! まともな服の一着も買えないなんて、やっぱりお前は世界で一番ダメな母親だ」
善明は口を挟まない。
ただ淡々とその光景を眺めているだけだ。まるで、これこそが彼自身の正しさを証明していると言わんばかりに。
善明の姿を見てからずっと強く握りしめていた拳が、その瞬間、ふっと緩んだ。
全ての疲労、全ての執着が、跡形もなく消え去っていく。
「いいわ」
善明が呆気にとられた。表情が強張る。
「……いい、とは?」
「親権はあなたに譲るわ。すぐに協議書にサインしましょう」
「あなたたち親子三人が、ようやく幸せに暮らせるのよ。祝福するわ」
寒風が吹き抜ける中、時雄と遥香は驚き、そして歓喜した。私が前言を撤回することを恐れたのか、時雄が身を乗り出す。
「パパ、早くサインして! 早く! 僕、一秒だってこの人のそばにいたくない!」
しかし、善明は予想に反して嬉しそうではなかった。不満げに私を睨みつけている。
「どういう意味だ?」
「親権を捨ててまで、自分の非を認めたくないと? 私に復縁を懇願しないのか?」
遥香が、慈愛に満ちた寛大な女性を演じるように口を開く。
「そうよ。私たちはただ、時雄ちゃんに安らかな環境を与えたいだけなの。亜澄さん、あなたが自分を変える努力をするなら、善明さんはチャンスをくださるはずよ?」
私は答えなかった。答えるべき言葉など、もう何も持っていなかった。
「時雄の荷物がまだ家にあるわ。一緒に取りに行きましょう。それで最後にしましょう」
駐車場の最も目立つ場所に、見慣れた黒いロールス・ロイスが停まっていた。
私は助手席のドアへと向かい、手を掛けようとした。だが、それよりも早く遥香がドアの前に立ち塞がった。
彼女は礼儀正しく、それでいて困ったような笑みを浮かべる。
「ごめんなさい亜澄さん、車内が手狭で」
私は彼女を一瞥した。
彼女は大げさに両手を広げてみせる。
「どうしてもと言うなら、歩いてみてはいかが? そのほうが健康的ですし」
彼女は軽やかに言った。まるでそれが、ごくありふれた些細な提案であるかのように。
善明は何も言わなかった。その沈黙は、全てを肯定していた。
やがて、背後でロールス・ロイスの重厚なエンジン音が響いた。
運転手が車を私の背後につけ、速くもなく遅くもない速度で追尾してくる。
私を追い抜くことはなく、かといって距離を開けることもない。
ただ私の背後に張り付いている。見えない鎖で繋がれたかのように。
そして私は、その鎖の先を歩かされるペットだった。
通行人たちはすぐに異様な光景に気づいた。
「あの車、ずっとあの女性の後をつけてないか?」
「また金持ちの変わった求愛行動かしら」
「さあねえ。聞いてみたらどう?」
背後でパワーウィンドウが開く音がして、時雄の不機嫌な声が響く。
「パパ、あいつにもっと早く歩くように言ってよ。遅いんだもん」
遥香がクスクスと笑い声を添える。
「本当ね。亜澄さん、もっとゆっくり歩いたら、私たちサーカスの動物みたいになってしまうわ」
けれど、私は誰よりも理解していた。
これは、人々が噂するような求愛行動などではない。
これは単に、彼が考え出した最新の、私を甚ぶるための拷問に過ぎないのだと。
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私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
妊娠を隠して離婚します
九条雅人は彼女の顎を荒々しく掴み、低く唸った。
絢香の頬は屈辱と興奮で真紅に染まったが、その声にはまだ意地が残っていた。「あなたこそ、私に執着しているだけじゃないの?」
雅人は冷酷に鼻で笑った。
「離婚してからどれほど経った? それでもう俺の『ルール』を忘れたか。お前の身体は、今でも俺をこんなによく覚えているくせに。……ほら、咥えろ」
熱を帯び、恐ろしいほどに猛り狂った彼の太いものが、絢香の顔を容赦なく叩いた。
雅人は冷たく笑う。
「俺から離れられるなんて夢にも思うな、絢香。お前は俺だけのものだ」
——
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絢香は静かに離婚届にサインし、自身の「妊娠診断書」を胸に抱いて彼の元を去った。
だが、絢香が完全に姿を消した瞬間、雅人は狂わんばかりになり、街中を血眼になって彼女を捜し回った。
ついに再会を果たしたとき、雅人の瞳は血走り、その声は掠れていた。
「絢香、俺が悪かった……頼む、俺の元に戻ってきてくれ」
追放された私が真の継承者だった件。今さら戻れと言われても、もう手遅れです
けれど、私の本質を隠し通すことは誰にもできない。
隠された私の正体は、この国で最も裕福な一族の継承者。
かつての家族が私を見失っている間に、私は全ての支配者となり、この街の頂点に君臨する男の視線を独占する。
彼が私に捧げる愛は、ただの寵愛ではない――世界を敵に回してでも守り抜く、狂おしいまでの執着だ。













