第2章
アパートに到着した、その時のことだ。
遥香の瞳には、隠しきれない嫌悪感が滲んでいた。まるで、ここの空気を一口でも吸えば毒に冒されるとでも言いたげな顔つきだ。
「ずっとこんな所に住んでたわけ?」
彼女は薄暗く狭苦しい廊下を見回し、視線を時雄に落とすと、わざとらしいほど大きな溜息をついて見せた。その声には、計算された同情色がたっぷりと塗られている。
「時雄ちゃん、本当に偉いねえ。こんな場所に住むのを我慢できるなんて……私だったら、絶対に無理。可哀想すぎて、時雄ちゃんをこんな目に遭わせられないよ」
彼女が涙声を作ると、時雄もそれに呼応するように、自分が悲劇の主人公であるかのように振る舞い始めた。
善明が眉をひそめる。その表情は険しい。
「亜澄、お前の育児はどうなってるんだ? こんなあばら家で、息子に苦労を強いるつもりか」
私は何も弁解せず、ただ鍵を取り出してドアを開けた。
扉が開いた瞬間、部屋に籠もっていた冷気が肌を刺す。
1LDKの狭い部屋。無理やり仕切って作った時雄のスペース。家具はどれもリサイクルショップで揃えたような古びた品ばかりで、ソファカバーは何度も洗濯して色が抜けている。
かつて大手法律事務所のエリート弁護士だった私が、悪評にまみれ、どこの事務所にも雇われず、非正規の職で食いつなぐようになってから借りられる唯一の場所がここだった。
だが、それもこれが最後だ。
ようやく、終わる。
私は時雄のランドセルや玩具を一つひとつ拾い上げ、丁寧に畳んで段ボールに詰めていった。彼が愛用している歯ブラシ、コップ、寝る時に抱きしめるぬいぐるみも、すべてその中へ。
「これ、時雄の荷物」
私は段ボール箱を善明の前に押し出した。できるだけ平静を装って。
「寝る時はこのクマがないとダメなの。朝起きたらまず水を飲ませてあげて。冷たいのはお腹を壊すから控えて……あと、夜更かしさせないように。テレビを見すぎると翌朝起きられないから……」
細々とした注意点を、いつもの癖で口にしてしまう。
けれど、善明はその箱を受け取ろうとしなかった。
次の瞬間、彼は突然手を伸ばし、パァンと音を立ててドアを閉めた。遥香と時雄を、外へ締め出したのだ。
部屋に残されたのは私と彼、そして几帳面に分類された荷物の山だけ。
「いい加減にしろ、亜澄」
彼は冷ややかな目で私を見下ろした。
「こんな茶番、楽しいか?」
「え……?」
私は呆気にとられた。
「荷物を細かくまとめて、いちいち注意書きまで並べて」彼は鼻で笑う。
「そうやって俺の同情を誘いたいだけだろう? 母親一人でこんなに苦労してますってアピールして、俺を心変わりさせたいわけだ」
彼は口の端を吊り上げ、すべてを見透かしたような顔をする。
「俺がその哀れな姿を見て、『やっぱりお前が育てろ』と言うとでも思ったか?」
体の横で握りしめた指先が、わずかに震えた。
善明はポケットから書類の束を取り出し、傍らのテーブルに放り投げると、コツコツと指関節でそれを叩いた。
「復縁の合意書なら用意してある。いつでもサインできるぞ」
彼の口調は淡々としていた。
「お前が頷きさえすれば、すぐにでも昔の日々に戻れるんだ」
昔に、戻る?
私は一度まぶたを閉じた。脳裏に、過去の記憶が逆流してくる。
——
働き始めたばかりの頃、私は名門法律事務所でインターン弁護士として、最低賃金で雑務に追われていた。
ある晴れた日、閉廷後の裁判所の階段は陽射しを浴びて熱を持っていた。
先輩弁護士の後ろについて歩いていると、突然、被告人の家族が飛び出してきた。本来の標的は私の同僚だった。
個人的な恨みを持つ彼らは、口を開けば罵詈雑言の嵐で、今にも手が出そうな勢いだった。
先輩は反射的に身を引いて、事なかれ主義でその場を収めようとした。「不満があるなら話し合いましょう」と。
だが相手は聞く耳を持たない。
私は二人の間に割って入り、理路整然と相手を論破した。
気圧された相手は言葉に詰まり、捨て台詞を吐いて去っていくしかなかった。
先輩は呆れたように私を見た。
「来て数日でそんな強気だと、この業界で生きていけなくなるぞ。恨まれても知らないからな」
私は笑って答えた。
「この程度の修羅場で引くようなら、最初から弁護士なんて選んでません」
その時、裁判所の入り口近くに一台の高級車が止まっていた。
車にもたれかかり、スマホを片手にこちらを見ていた男。
それが、善明との初めての出会いだった。
その後すぐに、彼は大口クライアントの代表として事務所に現れ、パートナー弁護士に出迎えられて会議室へと消えていった。
そこからの展開は、まるでドラマのようだった。
激務に追われていたある日、デスクに花束が置かれていた。カードには『勇敢な新人弁護士へ』の文字。
私の誕生日には、彼がパートナー弁護士に根回しをして残業を免除させ、時間通りにビルの下に迎えに来た。連れて行かれたのは、街で一番予約が取れないレストランだった。
彼はただのインターンである私に、本来なら関われないような大型案件の機会を回してくれた。傍聴させ、資料作成を手伝わせた。
深夜まで残業していると、彼は「通りがかったから」と言って夜食を差し入れてくれた。
ある時は、母の小さな台所に彼がエプロン姿で立ち、野菜を洗い、ネギを刻み、スーパーの特売卵について母と楽しげに議論していたことさえある。
母でさえ笑みをこぼし、私に言ったものだ。
「あの子はいい人よ、亜澄。思いやりもあるし、料理もしてくれる。考えてみたらどう? ママの結婚が失敗だったからって、臆病になることはないわ。貴方はきっと、ママより幸せになれる」
心が動かなかったと言えば嘘になる。
母の失敗を見て育った私は、「結婚」というものに期待していなかったし、むしろ拒絶していた。
けれど、あの時期、私は思い始めていた。すべての結婚が母のような結末を迎えるわけではないと。
もしかしたら、私も試してみてもいいのかもしれない。
そう自分に言い聞かせた。
——
私たちは結婚した。
結婚して三ヶ月目、私は彼を遊園地に誘った。
平日の午後を選んだので人は少なく、ゆっくりと回れるはずだった。
善明は快諾し、私より三十分も早く待ち合わせ場所に現れた。
彼は夜の小型花火ショーを予約してくれていた。夜の帳が下りる頃、空には色とりどりの光が弾けた。
私は彼の隣に立ち、ポケットの中で妊娠検査薬の報告書を握りしめていた。心臓が早鐘を打っていた。
パン、パン、と花火が弾ける音の中で、私はその紙を彼に手渡した。
「妊娠したの」
彼は数秒呆気にとられ、次の瞬間、私を抱き上げてその場でくるりと回った。その顔に浮かんだ喜びはあまりに純粋で、私もつられて笑ってしまった。
あの瞬間、私は確信した。この結婚を選んだことは、間違いじゃなかったと。
けれど、その翌日のことだ。
彼を驚かせようと、私は仕事を早めに切り上げて帰宅した。
リビングには彼が昨夜脱ぎ捨てた上着がそのままになっていて、家の中は静まり返っていた。
寝室のドアを開けた瞬間、絡み合う二つの影が目に入った。
善明と、彼の新しい秘書だった。
シーツはぐしゃぐしゃに乱れ、部屋には生々しい情事の匂いが充満していた。
善明は慌てる素振りも見せず、ただダルそうに私を見上げた。謝罪の言葉ひとつない。
「何で帰ってきたんだよ」
彼は眉をひそめ、楽しみを中断されたことに不満げだった。
私は入り口で立ち尽くし、喉が詰まったような声で問いかけた。
「何してるの……?」
「見ればわかるだろ」
彼はこともなげに、当然の権利であるかのように言い放った。
「お前が妊娠して、俺の性欲はどう処理しろって言うんだ?」
