第4章
伊井瀬奈が何かを言う前に、彼は彼女を直接抱き上げて自身の膝の上に乗せた。数秒間の浮遊感の後、気づいた時には伊井瀬奈はすでに彼の膝の上で、頭を胸に押し付けられていた。
耳元で彼の力強い心臓の鼓動が聞こえる。その感覚は伊井瀬奈に、自分も彼に大切にされているのだという一瞬の錯覚を抱かせた。
もうすぐ離婚することは分かっていたが、それでも彼に強く抱きしめられるこの感覚に、思わず溺れてしまいそうになる。それは夫婦の義務として抱き合う時とは違う、心臓が激しく高鳴っていた。
これが最後の放縦だ、と伊井瀬奈は自分に言い聞かせた。
神谷秘書はハンドルを握り、できるだけ車を穏やかに走らせようとしたが、伊井瀬奈はそれでも時折えずいてしまう。胃の中が焼け付くように熱く、空腹のせいなのか、吐き気のせいなのか分からなかった。
玉龍ヶ浜に着くと、黒川颯は車を降りてマンションの棟へと大股で歩いていき、病み上がりの伊井瀬奈と神谷竜也を車内に残した。
窓を開けると、外の新鮮な空気が流れ込んできた。伊井瀬奈は少し気分が良くなった。主に、彼女を悩ませる人物がいないせいだ。
「神谷秘書は彼女さん、いるの?」
名前を呼ばれた神谷竜也は、奥様が彼女を紹介してくれるのかと思い、慌てて自身の恋愛状況を報告した。
「最近お見合いで一人と……双方の両親にも会って、入籍しようかと」
伊井瀬奈は唇をきゅっと結んで「うん」と頷いた。「それは良かったわ、おめでとう。このネックレス、婚約者の方にどうぞ。綺麗なルビーだし、女の子ならみんな好きだと思う」
神谷竜也は奥様が差し出す精巧な小箱を見て、冷や汗をかいた。
「奥様、このネックレスは現在世界に二つしかありません。一つは発表会用で、もう一つが奥様のお手元にあるものです。これは黒川社長の奥様への一片の真心なのですよ!」
神谷竜也が受け取れるはずもなかった。値段が張ることは言うまでもなく、それは黒川夫人の地位の象徴だ。黒川社長に知られたら、殺されかねない。
黒川グループがどの四半期に打ち出す新製品も、真っ先に奥様に献上されないことなどありえない。他の誰かにそんな幸運があろうはずもない。
「奥様、どうかおしまいください。後ほど黒川社長が出てきて、あなたがこんなことを言っているのを見たら、私が殴られてしまいます」
神谷竜也は警戒するように外に黒川颯の姿がないことを確認し、ほっと息をついた。
伊井瀬奈は神谷竜也が受け取ろうとしないのを見て、それ以上は勧めず、無造作にバッグに突っ込んだ。
「分かったわ。あなたが要らないなら、後で別の人にあげる」
とにかく、この物を見ているだけで気分が悪くなるのだ。彼が上がってからしばらく経つが、今頃二人は何をしているのだろうと考えてしまう。
もしかしたら、もう睦み合っているのかもしれない。正妻である自分が彼を送り届け、階下で待っているなんて。
実に滑稽だ。
階上では、黒川颯がエレベーターを降り、そのまま指紋認証で鍵を開けた。
ドアを開けた途端、羽鳥汐里が飛びついてきて、温かく柔らかい玉のような体が胸に抱きついた。
「汐里、どこか具合が悪いのか。今すぐ病院へ行こう」
羽鳥汐里は彼が来る前にわざとぶりっ子メイクをし、ウェーブのかかった髪には何度もスタイリング剤をスプレーして、背中に優雅に散らしていた。全身が輝くようで、病人の気配は微塵もない。彼女は黒川颯の引き締まった腰に腕を回し、彼の胸に顔をすり寄せた。
「颯、さっき心がすごくざわついて、心臓病が再発したのかしらって。触ってみて?」
黒川颯は入ってきた時、焦っていたせいで頭が少しぼんやりしていたが、彼女が無事なのを見て冷静さを取り戻し、ようやく理性が少しずつ戻ってきた。
「まず、俺から離れろ」
彼は両腕を広げ、降参のポーズを取るように下ろすことさえできずにいた。腰を羽鳥汐里にきつく抱きしめられ、どうしようもなく苛立ちが募った。
「汐里、今後こういう冗談は許さない」
羽鳥汐里は名残惜しそうに彼から離れ、彼の非の打ちどころのない顔を見た。その真剣な表情は恐ろしいほどだった。
「怒らないで。ただ、あなたに会いたかっただけなの。今日、帰らないでくれる? あなたの大好物の豚スペアリブの煮込みを作ったのよ」
「今日は用事がある。また今度だ」
彼女が無事なのを見て、黒川颯は帰る素振りを見せた。階下には病人が一人いる。多少は心配だった。
羽鳥汐里は彼が帰ろうとするのを見て、焦った。
「颯、数分でいいから付き合って。見せたいものがあるの」
羽鳥汐里は書斎へ行き、長い間描いていた作品を取り出して見せた。
「颯、見て。私がデザインしたペアリングよ。意味は忠誠と約束。これを私たちの結婚指輪にするのはどうかしら?」
黒川颯は今日、あまり忍耐力がなかった。伊井瀬奈に吐かれたせいかもしれない。口調もどこかぞんざいだった。「お前が決めていい。時期が来たら職人に作らせる」
羽鳥汐里は心の中で歓喜した。結婚指輪に異論がないということは、彼女と結婚するつもりだということだろうか? 彼と結婚するまで、あと一歩。長年の待ち時間は無駄ではなかった。
そして、その最後の一歩は……。
彼女は努力して、ペースを上げなければならない。
「颯、少し食べない? 午後の間ずっと煮込んで、あなたのために特別に習ったの。手を火傷しちゃったのよ」
羽鳥汐里は甘えながら黒川颯をキッチンへ連れていき、黒川颯は無理やり一口食べさせられた。
彼が車に戻った時、伊井瀬奈は彼の体から漂う煮込み肉と香水の混じった匂いに、再び胃の中がひっくり返るような感覚に襲われた。
黒川颯は息を吸い、彼女をちらりと見た。
「さっき俺が歩いてきて車に乗る前は元気そうだったのに、どうして俺が入ってきた途端に吐くんだ?」
伊井瀬奈は一瞬動きを止め、ふと可笑しくなった。
幻聴かと思った。
「私が演技してるって? わざと病気のふりをして、あなたが浮気相手に会いに行くのを邪魔してるって言うの?」
黒川颯は彼女の言葉に激昂した。
「言葉に気をつけろ。自分の立場を忘れるな」
伊井瀬奈は声もなく笑った。心の底から傷ついた、そんな笑みだった。その後は車の窓に寄りかかり、何も言わなかった。
今の自分に、羽鳥汐里を浮気相手と呼ぶ資格などあるのだろうか。離婚協議書にサインした今はもちろん、たとえ離婚しなくても、自分に資格はなかった。
彼女のこのいじけきった様子に、黒川颯の怒りは収まった。
彼は横目で彼女を見た。伊井瀬奈の真っ白な小さな顔が窓に寄りかかり、伏し目がちにしている。かつてふっくらとしていた唇には血の気が全くない。首筋には、車に乗る時に彼が掐ねった二つの浅い赤い指の跡が残っていた。
見れば見るほど、いじめやすいように思えた。
「こっちに来い!」
彼の命令口調が、車内の一方の静寂を破った。
伊井瀬奈は訝しげに彼を見た。
「辛いんだろう。まだ寄りかかりたいんじゃないのか?」
伊井瀬奈はぷいと顔をそむけて意地を張ったが、またしても彼に無理やり膝の上へと抱き上げられた。次の瞬間、彼の胸元にある淡い口紅の跡が目に入り、涙が堪えきれずに溢れ出した。
一体どんな大罪を犯したというのだろう。こんな場面を無理やり見せつけられるために、彼に連れてこられるなんて。
黒川颯が胸元が濡れているのに気づいた時、車はすでに旧宅の庭に停まっていた。
彼は片手で軽々と腕の中の女を抱え上げ、汚された自分のシャツを見て眉を「川」の字に寄せた。
車を降りた後、黒川颯は少し歩調を緩めた。伊井瀬奈は小走りで数歩追いつき、彼の腕に自分の腕を絡めて家に入った。二人が家に帰る時の決まった手順だ。その演技はとうに習熟しきっていた。
十数メートルの吹き抜けがあるリビングは豪華な内装だった。
黒川お爺さんは仏教を信仰しており、ドアを開けると漂うほのかな白檀の香りが、伊井瀬奈の胃を幾分か楽にしてくれた。
執事の森下さんが声を張り上げて家の中に叫んだ。「旦那様、若様と若奥様がお帰りになりました!」
振り返ると、今度は伊井瀬奈に笑いながら冗談を言った。「若奥様がもう少しお帰りが遅かったら、あの海老はもう危なかったですよ。織江さんが午後中ずっとぶつぶつ言っていたのですが、旦那様は首を縦に振らず、若奥様がお帰りになるのを待っていたのですから」
黒川颯は唇の端を上げた。「こいつは胃が小さい。海老を十匹も残しておけば、一日中腹一杯だ」
黒川お爺さんが書斎から出てきて、ご機嫌な様子だった。九十歳近い老人だが、手入れが行き届いているためか声に張りがあり、七十歳だと言っても信じる者がいるだろう。
「何をそんなに賑やかに話しているんだ? 瀬奈、こっちへ来い!」
伊井瀬奈は甘い声で「お爺さん」と呼び、言われた通りに黒川お爺さんのそばに立った。
