第2章 1か月後に
スローン視点
翌日、私はウィンズロー家へ戻った。
玄関を開けたメイドのアンナは、どこか他人行儀な笑みを貼り付けた。
「お嬢さま。奥さまとケイラさまが、リビングでお待ちでございます」
部屋に足を踏み入れた途端、母イザベラの甘やかな声が耳に届く。
「ゆっくり食べなさい。誰も取らないわ。海外ではちゃんと食べてなかったの? この子ったら……」
顔を上げると、ダイニングテーブルの向こうに、私とどこか似た眉目の若い女が座っていた。
淡いピンクのルームウェアに、白い肌。大きく澄んだ瞳。精巧な人形みたいに整った可憐さ。
――ケイラ。
彼女はミルクシェイクのボウルを両手で抱え、嬉しそうにちびちびと口をつけている。
イザベラはその隣で、慈しむような眼差しを向け、時折そっと前髪を払ってやった。
温かな光景。……羨ましいとすら思ってしまう。
私が引き取られてから、母の私への態度はずっと淡々としていた。あんな目で見られたことなど、一度もない。
「ママ。この人が姉のスローン?」
ケイラが先に私に気づき、イザベラへ首を傾げる。
イザベラは私を軽く一瞥しただけで、そっけなく頷いた。
ケイラは器を置いて立ち上がり、弾むように近づいてくる。笑顔は眩しいほど。
「はじめまして。やっと会えたね。……すごく綺麗」
私は、その私に似た顔に溢れる若さと生命力を見て、ジャレッドが彼女を特別に思う理由が、少しだけ分かった気がした。
「おかえりなさい」
礼儀として、そう返す。
「二人とも立ってないで、座りなさい」
イザベラの声は、さっきより明らかに温度が下がっていた。
私は一人掛けのソファに腰を下ろした。彼女たちとは、ローテーブルひとつ分の距離。
「ジャレッドから聞いたわ」
ケイラは姿勢よく座り直し、指を重ねて膝に置いた。所作まで上品だ。
「スローン……ごめんなさい。この三年、あなたに辛い思いをさせた」
目元がうっすら赤く、声も誠実で、誰が見ても責める気を失うだろう。
イザベラがすぐに彼女の肩を抱く。
「馬鹿ね。あなたのせいじゃないでしょ? あのときのモントクレア家の状況で、あなたを地獄に突き落とすなんて、私にはできなかったわ」
私は紅茶をひと口含んだ。舌に苦みが広がる。
――ケイラを地獄に落とせないから、私を落とした。
三年前、モントクレア家は資金繰りが破綻寸前で、いつ倒産してもおかしくなかった。
ケイラはそれを聞くなり泣き喚き、ジャレッドと結婚して苦労するのは嫌だと拒んだ。
イザベラは娘を可愛がりながらも、婚約破棄でウィンズロー家の体面を傷つけるわけにはいかない。そこで思い出したのが、田舎に預けられて育った私だった。
最初は断った。けれど――ジャレッドを見た瞬間、私は考えを変えた。
私は彼と一緒にいちばん昏い三年を過ごし、傾いた会社を少しずつ立て直すのを支えた。自分の居場所を作るために。
「スローン、これからどうするつもり?」
ケイラが小首を傾げ、期待に満ちた目で覗き込んでくる。
「ジャレッドと離婚する」と言いかけて、昨夜の言葉を思い出した。
――当面、誰にも知られたくない。
だから私は曖昧に笑って、話をぼかす。
「どうするって……?」
ウィンズロー家が、私の三年の働きに少しは顔を立ててくれると思っていた。
けれどイザベラは不機嫌そうに、あっさり核心を突く。
「ケイラとジャレッドは幼い頃から親しいの。ケイラが戻ってきたんだから、あなたは早くジャレッドと離婚して、モントクレアの奥さまの座をケイラに返しなさい」
ティーカップを持つ手が、空中で固まった。けれど表情だけは、理解ある微笑を貼り付ける。
「分かったわ。ジャレッドと離婚する」
イザベラの声が少し和らぐ。
「それでいい。ウィンズロー家もあなたを粗末にはしないわ。お父さまが会社で楽なポストを用意してくれる。給料は少ないけど、生活には困らないはず」
「ママ、それじゃお姉ちゃんが可哀想じゃ……」
ケイラは口では止めるのに、目の奥の笑みが隠しきれていない。
「田舎から来た子で、学歴も大したことないんだから。仕事をあげるだけでもありがたいでしょ」
イザベラは侮蔑を隠さなかった。
「結構よ」
私は立ち上がり、淡々と言う。
「用がないなら、帰るわ」
ウィンズロー家を出ると、私はスマホを取り出し、海外の番号へ発信した。
「以前、私にそちらの中核技術の研究に参加してほしいと言いましたよね」
受話口の向こうは丁寧に答える。
「はい。本部では常にスローンさんの学術的な成果を高く評価しております。ぜひ協力の機会をいただけないでしょうか」
私は一度だけ、振り返った。この家は、一度も私を本当の家族として迎え入れなかった場所。
「……分かりました。引き受けます」
「本当ですか? ではいつ渡航を? お迎えの手配を――」
少し考えてから告げた。
「1か月後に」
1か月後。ジャレッドとのことに、区切りがつく。
翌日、私は市立病院へ向かった。
ライラはエコー画像を見ながら眉をひそめる。
「一人で妊娠したまま海外? スローン、正気?」
ライラは市立病院の医師で、私がいた田舎に研修で来たことがある。私の過去を知る数少ない人だ。
私は検査台に横たわり、天井を見つめたまま言った。
「今ほど冷静なとき、ないよ」
「ジャレッドは? 賛成してるの?」
「知らない」
昨日、離婚を突きつけてきた彼を思い出し、乾いた苦笑が漏れる。
「たぶん、気にもしない」
ライラはしばらく黙り、それから言った。
「うちに来なよ。あなた、名医の系譜なんでしょ? ここなら絶対やれる」
私は彼女の手を握って笑う。
「大丈夫。自分のことは自分で守れる」
彼女は数秒私を見つめ、悔しそうに吐き捨てた。
「ケイラって何がいいの? 戻ってきた途端、みんなあの子の味方で……」
私は答えなかった。
診察室を出た瞬間、廊下の奥がざわついた。
「どいてください! 救急です!」
医療スタッフがストレッチャーを押して駆け抜ける。白髪の高齢女性が横たわり、顔面は蒼白で、息が荒い。
若い医師がこちらへ走り込んでくる。
「先生! 患者さん、発作性の不整脈で……循環器内科にコンサルお願いします!」
「分かった」
白衣を羽織ったライラが飛び出そうとした瞬間、私は彼女の袖を掴んだ。
「たぶん心房細動に急性心不全が乗ってる。ジギタリスは使えるけど半量で。少量の利尿剤を併用して、電解質はモニタして」
耳元で囁くと、ライラが目を見開いた。
「一目でそこまで分かるの?」
それから彼女は私の手をぎゅっと握り、強く頷く。
「ありがとう、スローン。覚えた!」
ライラは医療スタッフの後を追っていった。
あの患者の状態は良くない。胸の奥に嫌な予感が走り、私も足が動く。
救命処置室の前には医師が集まり、険しい顔で言い争っていた。
「86歳だぞ。使えない薬が多すぎる!」
「使わなきゃ心不全が悪化する。ショックに入ったらどうする!」
「肝障害のリスクは? 腎機能が落ちたら誰が責任を取る!」
ライラが人垣をかき分けて中へ入り、白髪混じりの医長と早口でやり取りしているのが見えた。
しばらくして議論に決着がついたのか、医長の眉間の皺がほどける。
そして――力強く頷いた。
