第5章 離婚は延期する
言い終えると、私はもう彼女を相手にせず、そのまま階段へ向かった。
「ちょっと、どういう態度なのよ!」
背中に、イザベルの声が甲高く突き刺さる。怒りで尖った、あからさまな非難。
「ジャレッドから何百万もする贈り物を受け取っておいて、今さら清廉ぶって誰に見せてるの? スローン、言っておくけど――調子に乗らないで!」
私は足を止め、疲れきったまま振り返った。憤怒で歪んだその顔を見た瞬間、胃の奥がむかつく。ここで争って、言い返して――何になる。全部、空しいだけだ。
「安心して」
私は冷たく彼女を見据えた。
「離婚したら、これらは全部現金に換算して、1円も欠けずにキアラの口座へ振り込む。……それで満足?」
イザベルの怒気が、ぴたりと止まる。私がそんな言い方をするとは思っていなかったのだろう。
隣のキアラが慌ててイザベルの腕に縋りつく。
「ママ、そんな言い方やめて。スローンだってわざとじゃないよ。ジャレッドが贈ったものなんだから、もうスローンのものだよ」
そう言ってから、今度は私に向き直り、作り物みたいな申し訳なさを貼りつける。
「スローン、気にしないでね。ママ、思ったことすぐ口にしちゃうだけだから」
母娘の美談みたいな空気に、胸の奥で冷笑が滑った。
――本気でそう思ってるなら、さっきわざわざ「誰が贈ったか」なんて強調しない。
イザベルは私の提案が気に入ったらしく、顔色を緩めて鼻で笑う。
「それならいいわ。ウィンズロー家の人間が、わけの分からない得なんてしちゃいけないもの」
もう見ていられない。私は踵を返し、足早に階段を上がった。背後の声が、扉の向こうへ置き去りになる。
それから数日、私は部屋に籠もった。食事のとき以外、ほとんど外へ出ない。
ウィンズロー家は、ホテルよりも冷たい。
その日の午後、ジャレッドから突然電話が入った。
少しだけ迷って、通話ボタンを押す。
「俺だ」
受話器越しに落ちてくる声は低い。
「……何か用?」
自分でも分かるくらい、よそよそしい。
向こうが数秒黙って、それから言った。
「祖母さんがお前に会いたがってる。今日は少し元気で……ずっと、お前のことを口にしてる」
胸の奥が、かすかに揺れた。病院で会った、あの慈祥な老婦人の顔が浮かぶ。
「午後、屋敷に顔を出す。……お前も、来られるか?」
いつもより硬さのない声。私は彼の意図を理解した。
モントクレア大奥様は、まだ私たちを「夫婦」だと思っている。ジャレッドひとりで現れたら、不審に思わせる。下手をすれば、余計な心労をかける。
「住所、送って。あとで行く」
結局、私はそう答えた。
三十分後、送られてきた住所を頼りにモントクレア家の屋敷へ着いた。
私とジャレッドが暮らしていた近代的な邸宅とは違い、ここは歴史の重みを抱えた屋敷だった。巨大な鉄門がゆっくり開き、視界の先には手入れの行き届いた広い芝生と、咲き誇る薔薇園。
門前にジャレッドが待っていた。今日はグレーのカシミヤのニットに、肩の力を抜いた装い。ビジネスの鋭さが薄れ、どこか家庭的な穏やかさが滲む。
私を見ると、彼は近づいてきて、視線が一瞬だけ私の上で止まった。それから自然に手を伸ばし、私のバッグを受け取ろうとする。
反射的に身を引いた。
「自分で持てる」
淡々と言うと、彼の手が宙で止まり――何事もなかったように引っ込められる。
「祖母さんは2階だ」
先に立って歩き出す背中。
厚い絨毯が敷かれた廊下を、私たちは前後で進む。言葉はない。静けさが、逆に息苦しい。
重い木の扉を押し開けると、床まで届く窓から陽光が差し込み、室内は暖かく明るかった。
モントクレア大奥様はベッドに身を預け、傍らではメイドがリンゴの皮を剥いている。
「祖母さん」
ジャレッドが先に声をかける。
大奥様がこちらを向き、私を見た瞬間、青白い顔に花が咲いた。
「スローン! 来てくれたのかい!」
起き上がろうとするのを、私は慌てて駆け寄り、そっと肩に手を添えて押しとどめた。
「無理しないでください、祖母さん。横になったままで」
「いい子だ。さあ、こっちにおいで」
ベッドの端を叩いて招き、私の手をぎゅっと握る。皺だらけの指先から、まっすぐな好意が伝わってくる。
私は言われるまま腰を下ろした。
彼女は私の顔をじっと眺め、心配そうに眉を寄せる。
「この数日、どこに行ってたんだい? ほら……痩せたじゃないか」
「それは……」
言葉に詰まる。
「ウィンズロー家に数日戻ってた」
ジャレッドが代わりに答えた。
その瞬間、大奥様の笑みがすっと消えた。視線が鋭くジャレッドへ向く。
「ウィンズロー家に? ……喧嘩でもしたのかい。まさか、別居じゃないだろうね?」
矢継ぎ早の問いに、ジャレッドが珍しく言葉を失った。口を開いて、閉じる。困惑が顔に出るのを、私は初めて見た。
このままでは大奥様を動揺させてしまう。私はすぐに笑顔を作った。
「違います、祖母さん。ちょっとホームシックになって、母と妹の顔を見たくなっただけです。すぐ戻りますから」
そう言うと、大奥様の表情が少し緩む。だが、まだ納得していない様子でジャレッドを睨んだ。
「まったく。スローンが実家に泊まるなら、あんたも付いていきなさいよ。夫でしょうが」
そして彼女は、私の手とジャレッドの手を引き寄せ、重ねて自分の手の甲に載せた。
「結婚して3年だろ。夫婦はね、きちんと育てるものだよ。ばあちゃんは、ひ孫を抱くのを楽しみにしてる。……二人とも、急ぎなさい」
私は反射的に手を引きたくなった。だが、ジャレッドが私の手を裏から握り返し、逃がさない。
温かく乾いた掌。肌越しに伝わってくる熱に、身体がこわばった。
顔を上げると、彼は私の視線を避けたまま、大奥様に柔らかく応じる。
「分かった、祖母さん」
そこへ、メイドのマリが薬を持って入ってきた。
「大奥様、お薬のお時間です」
大奥様が薬を飲み終えると、さすがに疲れが出たのか、瞼が重そうになる。それでも私の手を離さない。
「今日は帰らないでおくれ。屋敷に泊まりなさい。まだ話したいことが山ほどあるんだ」
私は困って、ジャレッドを見た。
すると彼は、そのまま受けてしまう。
「分かった。今夜はここに泊まる」
大奥様を休ませ、ようやく私たちは部屋を出た。廊下に出た途端、私は堪えきれず小声で切り出す。
「祖母さんの病気……本当にそんなに深刻なの?」
私の見立てでは、心不全は危険だったが、あの日の処置が奏功している。薬さえ適切なら、もっと回復していてもおかしくない。
ジャレッドが足を止めた。
振り返った彼の背は大きく、薄暗い廊下の灯りが影を落とす。表情の奥が読めない。
「医者が言った。祖母さんの心臓は刺激に弱い」
少し間を置いて、低い声が続く。
「感情が大きく揺れれば、それだけでまた心不全を起こしかねない」
私は息を呑み、すぐに意味を悟る。
「だから……」
「だから」
彼は私の言葉を遮った。沈んだ目で私を見つめ、声をさらに落とす。
「スローン、俺たちの離婚は……しばらく先に延ばす必要がある」
