第6章 ケイラは自殺した
スローン視点
胸の奥がずしりと沈んで、息をするのさえ苦しくなった。
「……どれだけ先延ばしにするつもり?」
堪えきれずに問い返すと、声は自分でも分かるほどかさついていた。
ジャレッドの顔から、さっきまでの温度がすっと消える。目元が冷えた。
「なんだ。そんなに俺から離れたいのか?」
その言い方が、逆に可笑しかった。
急いでいるのは私じゃない。あなたのほうだ――そう言ってやりたかった。
けれど、いまの彼の張りつめた横顔を見た瞬間、どんな説明も無意味だと悟ってしまう。
話が噛み合わないなら、言葉を増やすだけ損だ。
私は口を閉ざした。
沈黙が落ちると、廊下の空気まで重たく固まっていくみたいだった。
夕食は邸のクラシックなダイニングでとった。長いテーブルには、繊細に盛りつけられた料理がずらりと並ぶ。
モントクレア大奥様は昼よりずっと顔色がよく、「一緒に食べる」と譲らなかった。
食事の間じゅう、彼女は私の皿に次々と料理を取り分け、ことあるごとに体調を気づかう。
「スローン、あなた細すぎるわ。もっと食べなさい」
ジャレッドまで、今日は妙に協力的だった。魚を一切れ、骨を丁寧に抜いて私の皿に置く。さらに手袋をはめ、つやつやした白い海老を何尾も剥いて、私の前の小皿へそっと積み上げた。
手つきがあまりに自然で――まるで私たちが、本当に長年連れ添った仲睦まじい夫婦みたいで。
小さな山になった海老を見つめながら、胸の内がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「二人がそんなふうなら安心だわ」
大奥様は満足そうに笑い、それからわざとらしく顔を引き締めて私を見た。
「スローン。おばあちゃんが味方してあげる。もしジャレッドがいじめたり、あなたに冷たくしたりしたら、いつでも言いなさい。私が叱り飛ばしてやるからね!」
私はどうにか笑顔を作って頷いた。けれど胸の奥は、苦味でいっぱいだった。
――私たちが離婚間近だと知ったら。彼女はどんな顔をするのだろう。
夜。メイドに案内され、私たちは2階の主寝室へ通された。
以前の屋敷の寝室よりずっと広い。古い歴史を感じさせる重厚な内装で、どこか空気まで古典の香りがする。
準備を整えたメイドが退出し、部屋に残ったのは私とジャレッドだけ。
また、気まずい沈黙がじわりと広がる。
「先にシャワーを浴びる」
ジャレッドが先に口を開き、寝間着を手にバスルームへ入っていった。
私はようやく息をつき、ソファに腰を下ろす。
ほどなくして、彼がベッドサイドに置いたスマホがぶるっと震え、画面が灯った。
気にも留めなかった。けれど――数十秒おきに、また震える。光って、消えて、また光る。しつこいくらいに繰り返す。
バスルームからは盛大な水音。彼には聞こえていない。
こんな時間に仕事の報告でもしてくるなんて、空気の読めない部下だな――苛立ちが募る。
迷った末、私は立ち上がり、スマホを手に取った。
画面には内容は出ていない。ただ通知が、やたらと溜まっている。
私はロックを外し、本文は見ずに、礼儀として一言だけ打ち込んだ。
『彼は今、シャワー中』
送信して、スマホを伏せて戻す。ようやく世界が静かになった。
十数分後、ジャレッドが髪を拭きながら出てきた。
バスローブ姿。引き締まった胸元が半分開き、水滴が髪先から落ちて喉仏を滑る。
彼はまっすぐ私のところへ来て、隣に腰を下ろす。熱を帯びた気配が、肌を撫でた。
「何考えてた?」
腕が伸び、私は抱き寄せられる。
体が強張る。反射的な拒絶。彼の体温は熱いのに、私の背筋は冷えた。
もう離婚する。そのはずなのに――それでも認めざるを得ない。彼の身体は、非の打ちどころがない。
「あなたのスマホ、メッセージ来てた」
私は彼の胸を押して距離を作ろうとする。彼がこの手でケイラにも触れるのだと思うと、ぞわりとした不快感が走った。
「……ああ」
生返事のまま、彼は首筋に唇を落とす。
私は顔を背けた。
「見たほうがいい。ケイラが、あなたと連絡つかないって騒いでるかも」
「急がない」
苛立ったように言い、抱く腕がいっそう強まる。もう片方の手が、衣服の裾から入り込んできた。
本気だ。私の全身がびくっと硬直した、その瞬間――
伏せてあったスマホが、甲高く鳴り響いた。
耳を裂くような着信音が、艶めいた静けさを真っ二つに裂く。
ジャレッドの動きが止まる。
眉をひそめ、私を離して立ち上がり、スマホを掴む。
表示を見た途端、彼の顔色がわずかに変わった。スマホを持ったままバルコニーへ出て、ガラス戸を閉める。
かすかに、押し殺した声が聞こえる。最初は宥めるようだった口調が、次第に驚愕へ、そして切迫へ変わっていく。
数分後――彼は勢いよく戸を開け、部屋へ戻ってきた。
「バンッ」
スマホが、目の前のローテーブルに叩きつけられる。画面が蜘蛛の巣みたいにひび割れた。
「スローン……お前、ケイラに何をした!」
冷えきった声。黒い瞳の奥で、怒りが渦を巻く。私を射抜く視線は、まるで獲物を噛み砕くみたいだった。
突然の激昂に、私は呆然とする。
「お前は……どこまで性格が悪いんだ」
彼は身を乗り出し、両手でソファの肘掛けをついて私を逃がさない距離まで詰めてくる。
「さっきのメッセージ、面白半分で送ったのか? あれで刺激できるとでも思った?」
頭の中が真っ白だった。
「……私、何のことか分からない。誰から来たメッセージかも見てない」
「分からない?」
ジャレッドは怒りのまま笑った。そこにあるのは失望と軽蔑。
「ケイラが、さっき自殺した。今、病院で処置中だ」
心臓が止まったように感じた。血が一瞬で冷えた。
ケイラが……自殺?
――私の、あの一言のせいで?
「ち、違う……私じゃない……!」
私は必死に首を振る。
「相手が彼女だなんて知らなかったの。仕事の連絡だと思って……」
「もういい!」
ジャレッドは乱暴に遮り、私の手首を掴んで引きずり起こした。
「今すぐ病院へ来い。お前の口で、ケイラに説明しろ」
握力が痛い。骨がきしむ。
「ジャレッド、痛い……! 待って、話を――!」
彼は聞かない。私を引っ張って、よろめきながら部屋を出ようとする。
彼の目には私は――手段を選ばず、他人を追い詰める悪女にしか映っていないのだ。
三年一緒にいても、結局それだけ。
悔しさと怒りが喉元までせり上がり、最後の理性を押し流した。
車は夜の闇を切り裂いて疾走する。窓の外の景色が、線になって後ろへ流れていく。
私は、きつく結ばれた彼の横顔を見て、冷たく言った。
「止めて」
ジャレッドは無視した。むしろ速度が上がる。
「止めてって言った!」
声が尖る。胸が激しく上下した。
「私は謝らない。何も悪いことなんてしてない!」
「黙れ!」
彼がとうとう低く怒鳴った。
「なんで? ケイラだから? 可哀想で、病気があるから、あの子のすることは全部正しくて……私は冤罪でも黙って、土下座して謝れって?」
押し込めてきた屈辱が、一気に噴き出す。叫ぶみたいに言葉が飛び出した。
その瞬間。
感情のせいか、お腹の子が何かを感じ取ったのか――下腹がきゅっと引きつった。
私は反射的に腹を押さえる。次いで、胃の底から強烈な吐き気がせり上がってきた。
「うっ――」
乾いたえずき。顔から血の気が引く。
ジャレッドが急にスピードを落とした。彼は私の手首を掴み直し、無理やりこちらを向かせる。
「……妊娠してるのか?」
