第1章
今井心晴が誘拐されて一年――ようやく、家の門をくぐることができた。
彼女を送り届けたのは、地元の農夫だった。ぼろぼろのトラックに乗って、高級住宅街まで乗りつける。その場違いさが、ひどく目につく。
今井心晴が車を降りると、今井家は明々と照らされ、奥からはやわらかな音楽が流れてきた。どうやら、ずいぶん賑やかな夜らしい。
「お前んち、家族に大事にされてるんじゃなかったのか? 一年も行方知れずだったってのに、パーティーなんか開いてるのかよ?」
農夫は鼻をこすりながら、露骨な軽蔑をにじませて言った。
今井心晴の目には、ただ翳りだけが落ちていた。
嘘はついていない。誘拐される前、彼女はたしかに家族から宝物のように大切にされていた。なのに、たった一年で――もう忘れられてしまったのだろうか。
「言っとくが、送り届けたら礼をするって話だったろ。踏み倒すんじゃねえぞ」
念を押され、今井心晴は小さくうなずく。
彼女は誘拐犯に地下室へ閉じ込められ、丸一年を過ごした。もう死ぬしかないと覚悟した頃、偶然そこを通りかかった農夫に見つけられたのだ。
涙ながらに助けを求めても、農夫は誘拐犯を恐れてなかなか動こうとしなかった。そこで今井心晴は、自分が今井家の娘だと明かし、十分な謝礼を約束した。ようやく農夫はペンチで鉄格子を切り、彼女を外へ出してくれた。
助け出されてすぐ、彼女は家へ電話をかけた。だが家族は、相手が今井心晴本人だとはどうしても信じず、詐欺師だと怒鳴りつけた。
一年にわたる折檻で声帯は傷つき、声はひどく掠れていた。気づけなかったとしても、無理はない。
今井心晴はゆっくりと正門を押し開けた。
芝生には客が溢れ、シャンパンを片手に談笑している。
その中心にいたのは姉の今井優奈だった。華やかなドレスをまとい、両親に寄り添われて、幸福そのもののような笑みを浮かべている。
そこへ、白いスーツを纏った端正な男が歩み寄った。
男はやさしく身を屈め、今井優奈の頬に口づける。そして、甘く囁いた。
「誕生日おめでとう、優奈」
――雷に打たれたようだった。
今井心晴はその場で硬直し、全身がわなわなと震え出す。
その男は、幼なじみで婚約者だった古川俊哉。
かつて彼は彼女に誓った。守ると。愛し抜くと。一生そばにいると。
その同じやさしい目を、今は姉へ向けている。
視界がぐらりと揺れた。脚から力が抜け、立っているのもやっとだった。
そのとき、農夫が腹の底から怒鳴った。
「おーい! あんたんとこの嬢ちゃん、帰ってきたぞ! 迎えに来ねえのか!」
喧騒がぴたりと止む。
客たちはいっせいに門のほうを振り向き、今井心晴の姿を認めた瞬間、ざわめきが走った。
「……あれ、今井心晴? なんであんな姿に……」
「うわ、ホームレスみたい。汚いし、臭いし……」
「誘拐されてから毎日酷い目に遭わされて、病気までうつされたって聞いたけど。よく生きて帰ってこられたわね」
毒のある囁きが、針のように耳へ刺さる。
今井心晴は唇をきつく噛み、俯いた。
一年前の彼女は、この界隈でもひときわ目を引く名家の令嬢だった。礼儀も教養もあり、愛してくれる婚約者もいた。
それが今ではどうだ。全身に悪臭をまとい、人に避けられる汚れた女として見られている。
誰も知らない。彼女が必死に抵抗したことを。狂った誘拐犯たちに、決して屈しなかったことを。
だが犯人たちは、彼女から金になるものを引き出せないと悟るや、暗く湿った地下室へ閉じ込め、そのまま放置した。
一年ものあいだ、彼女の友は闇と糞尿だけだった。
誘拐犯の妻が憐れんで、ひそかに残飯を運んでくれなければ、とっくに死んでいたはずだ。
家へ帰れば悪夢は終わる。そう信じていた。
けれど待っていたのは、蔑みと、婚約者の裏切りだった。
両親は、娘の変わり果てた姿を見た瞬間、顔の笑みを凍りつかせた。
ぼろぼろの服の隙間から覗く肌は泥と垢にまみれ、しなやかだった長い髪は乾いて絡まりきっている。しかも数メートル離れていても、腐ったような臭気が鼻をついた。
「……心晴、本当にあなたなの?」
母の今井洋子は口元を押さえ、喜びよりも衝撃のほうが強い目で問いかけた。
父の今井茂雄は複雑そうな顔で娘を見つめ、ぎこちない声を絞り出す。
「戻ってきたなら……それでいい。ああ、戻ってきたならな……」
姉の今井優奈も一瞬だけ固まったが、すぐに作り笑いを浮かべた。
「心晴……帰ってこられて、本当によかった……みんな、ずっと心配してたのよ……」
言葉はやさしい。けれど、その顔に浮かぶ嫌悪と距離感までは隠しきれない。
今井心晴は何も言えなかった。胸を鈍器で殴られたみたいに痛くて、息が詰まる。
「おい、俺はちゃんと無事に送り届けたんだぞ。報酬はどうした?」
農夫が苛立たしげに割って入る。
今井茂雄夫妻は怪訝そうに今井心晴を見た。
今井心晴はこくりとうなずき、掠れた声で言った。
「……彼が連れて帰ってくれたら、きちんとお礼をすると約束しました」
夫妻は顔を見合わせ、それから農夫の薄汚れた身なりに目をやり、眉をひそめた。
今井茂雄が咳払いをひとつして尋ねる。
「いくら欲しいんだ?」
農夫は指を五本立てた。
「1000万だ。1円たりとも負けねえ」
その場の空気がすっと冷える。
金額そのものは、今井家にとって払えない額ではない。だが、土臭い農夫相手にその金を出すのは業腹――そんな本音が、ありありと顔に出ていた。
今井心晴の胸は、すうっと冷えた。
かつてあれほど可愛がってくれた両親が、今の自分のためには1000万すら惜しむのか。
今井茂雄は少し考え込み、それから愛想のいい笑みを浮かべた。
「娘を助けてくださって、本当に感謝しています。遠くからお疲れでしょう。よければまずはうちに泊まって、数日ゆっくりしてください。お礼の件は、そのあとで改めて――」
農夫は豪勢な邸宅を見回し、悪くない話だと思ったのか、素直にうなずいた。
すると客たちが、またひそひそと囁き始める。
「見た? あの農夫の目つき……気味悪い。まさか今井心晴、あいつに何かされてたりして」
「一年も消えてたんでしょ。何されてたか分かったもんじゃないわ。もう男に散々弄ばれてるんじゃない?」
言葉がぐさぐさと胸に刺さる。
今井心晴は芯まで冷えきり、指先まで震えた。
「もう外に突っ立ってないで」
今井洋子が周囲の視線に耐えかねたように言った。声には隠しきれない嫌悪がにじんでいる。
「上に行って、お風呂に入りなさい。その汚い服も着替えて」
今井心晴は無表情のまま、メイドに導かれて二階へ上がった。
浴室で肌がひりつくほど身体をこすっても、臭いは落ちない。地下室に染みついた腐臭は毛穴の奥まで染み込み、かつての輝きを根こそぎ奪っていた。
清潔な服に着替え、浴室を出る。二階の階段の踊り場に差しかかった、そのとき――。
「俊哉……心晴が帰ってきたなら、私のこと……もういらないの?」
今井優奈の、泣き声まじりの声。
続いて、古川俊哉の冷えきった声が響いた。
「今井心晴は一年も行方不明だったんだ。何人の男に触られたかも分からない。そんな女、俺はもう要らない。今、俺が愛してるのはお前だよ、優奈」
