第2章

その言葉を聞いた瞬間、今井心晴はその場に釘づけになった。全身が小刻みに震えて止まらない。

家族の露骨な嫌悪。婚約者の裏切り。

胸の奥がぎりぎりと軋み、息さえ詰まる。よろめくように一歩退いた拍子に、階段の踊り場に飾られていた花瓶へ肩がぶつかった。

がしゃん――という音に、一階にいた二人がはっと顔を上げる。

今井優奈と古川俊哉は、そこに立つ今井心晴の姿を認めた途端、そろって気まずそうに表情をこわばらせた。

今井優奈はすぐさま顔つきを整え、あの優しく気遣う姉の仮面を被ると、足早に駆け寄ってきた。手を伸ばしかけて、触れる寸前でためらい、結局は腕にそっと添えるだけに留める。

「心晴、どうしてここにいるの?」

一方、古川俊哉はその場から動かず、わざとらしいほど露骨に視線を逸らしたままだった。

「心晴、この一年……いったいどうしてたの? すごくつらい思いをしたんでしょう?」

気遣うような口調。けれど、その一言一言が今井心晴の胸を深く抉る。

誰だって知っている。この一年、彼女が人間とは思えない地獄を味わってきたことくらい。

それを今さらわざわざ口にするのは、心配しているからではない。ただ彼女を惨めにしたいだけだ。

今井心晴は冷えきった目で優奈を見つめ、唇の端に薄い嘲りを浮かべた。

「私が味わった苦しみって……もしかして、あなたのせいじゃないの?」

その瞬間、今井優奈の顔から血の気が引いた。みるみるうちに目元が赤く染まる。

「心晴、どうしてそんな言い方するの? 私たち、姉妹じゃない。私があなたを傷つけるはずないでしょう?」

「姉妹?」

今井心晴は一歩踏み出し、まっすぐに優奈を射抜いた。

「一年前、あなた、郊外の廃倉庫でトラブルに巻き込まれたって私に連絡してきたよね。早く来てって。……それで駆けつけた先にいたのが誘拐犯だった。それでも偶然だって言うつもり?」

今井心晴は忘れたことがない。

『知らない男たちにつけられてるの。郊外の廃倉庫に隠れた。早く助けて』

今井優奈から届いた、あの助けを求めるメッセージを。

あのとき彼女は焦りで頭が真っ白になっていた。両親にも、古川俊哉にも知らせる余裕すらなく、ただ一人で車を飛ばした。

けれど、湿って薄暗い倉庫へ足を踏み入れた次の瞬間、大きな手が後ろから口を塞いだ。

そこから先は、地獄だった。

一年間。終わりの見えない、地獄。

しかも誘拐犯は最初から最後まで、今井家に身代金を要求しなかった。

そんな話、常識ではありえない。

だからこそ今井心晴は何度も疑った。

これは偶然なんかじゃない。今井優奈が仕組んだ誘拐だったのではないか、と。

けれど――なぜ。

姉妹なのに。どうして自分にそんなことをするのか。

その答えだけが、どうしても見えなかった。

今井優奈はとうとう泣き出し、古川俊哉の袖をぎゅっと掴んだ。

「俊哉……ひどい……どうしてそんなこと言うの……」

古川俊哉は優奈を庇うように抱き寄せると、氷のような目で今井心晴を見た。

「今井心晴、お前がこの一年どれだけ苦しんだかは分かる。だけど、その鬱憤を姉さんにぶつけるのは違うだろ」

信じられなかった。

十年以上も想い続け、いつか必ず結婚するのだと信じていた男が、今この瞬間、彼女ではなく別の女の隣に立っている。

「……私じゃなくて、そっちを信じるの?」

絞り出した声は、絶望に濡れていた。

「もうやめろ!」

古川俊哉は彼女の視線から逃げるように目を背け、腕の中の優奈をいたわるように見つめる。

「お前がいなくなってたこの一年、優奈は毎日泣いてたんだ。ろくに食べられなくて、眠れなくて、あちこちに頭を下げて必死でお前を捜してた。それなのに感謝もしないで、今度は濡れ衣まで着せるのか? お前に良心はないのかよ」

言い争う声は次第に大きくなり、それを聞きつけた今井茂雄と今井洋子が二階へ駆け上がってきた。

目の前の光景を見た途端、二人の顔色がすっと沈む。

「心晴、何をしているの?」

真っ先に口を開いたのは今井洋子だった。責める色を隠そうともしない声。

「帰ってきたばかりで、お姉ちゃんを泣かせるなんて」

今井茂雄も眉間に皺を刻み、青筋を立てる。

「戻ってきたと思ったら家の中をかき回して……! 今日という今日で、今井家の面目は丸つぶれだ!」

すると今井優奈が、いかにも庇うふりをして口を挟んだ。

「お父さん、お母さん、心晴を責めないで。誘拐犯に一年も苦しめられたんだもの。少し神経質になるのも無理ないよ」

――一年、誘拐犯に監禁されていた。

その事実に触れた瞬間、その場の空気がずしりと重く沈んだ。

彼らの目に宿るのは哀れみではなく、まるで罪人でも見るような陰りだった。

今井洋子は優奈をいたわるように抱き寄せながら、心晴に言い聞かせる。

「ほら、お姉ちゃんはちゃんとあなたのことを分かってくれてるでしょう。あなたももう子どもじゃないんだから、少しは分別を持ちなさい」

今井心晴は家族の顔を見渡した。

両親は姉を庇い、婚約者もまた姉の味方をする。

誰一人として彼女の言葉に耳を貸そうとはしない。

自分だけが厄介者で、自分だけが場違いな存在だった。

胸の奥にどろりとした絶望が広がっていく。

命がけで逃げ帰ってきた。せめて少しでも温もりが残っていると、どこかで信じていた。

けれど待っていたのは、終わりのない非難と嫌悪だけ。

この家は、もう彼女の知っている家ではない。

彼女もまた、かつて家族に宝物のように愛された今井家の令嬢ではなくなっていた。

今井心晴はもう何も言わなかった。

これ以上言葉を重ねても、何ひとつ変わらないと分かってしまったから。

踵を返し、その場を離れる。

自室へ戻った瞬間、彼女は息を呑んだ。

かつてあれほど広く美しかった部屋は、いつの間にか物置同然に変わり果てている。

自分の服は一着も見当たらない。

今井心晴はそのまま階段を駆け下り、鋭い声で問いただした。

「私の部屋、どうしてあんなふうになってるの? 私のものは、どこへやったの?」

不意を突かれた一同が、揃って言葉を失う。

今井優奈は慌てて涙を拭い、申し訳なさそうな顔を作って立ち上がった。

「心晴、ごめんね。あれは私が言い出したことなの。お父さんとお母さんを責めないで」

そこでいったん言葉を切り、胸を痛めているふうに目を伏せる。

「あなたが誘拐されてから、お父さんもお母さんも、あなたの持ち物を見るたびにつらそうで……。だから全部、地下室の物置に移したの。明日、人を呼んで戻させるから」

地下室。

その一言だけで、今井心晴の心臓はぎゅっと掴まれたように痙攣した。

闇と湿気、それに鼻を刺す腐臭。

誘拐犯に閉じ込められた、あの地下室の記憶が一気によみがえる。

彼女は反射的に自分の身体を抱きしめた。震えが止まらない。瞳の奥に浮かぶのは、隠しようのない恐怖と拒絶だった。

今井優奈が心配そうな顔で近寄る。

「心晴、大丈夫?」

「触らないで!」

鋭く跳ねた声が、部屋の空気を切り裂く。

「私を地下室に押し込んで、二度と出てこられなくしたかったんでしょ?」

「心晴、違うの……私、そんなつもりじゃ……」

今井優奈はまたぽろぽろと涙をこぼし、すがるように両親を見た。

今井洋子が苛立ちを滲ませながら前へ出る。

「心晴、落ち着きなさい。優奈に悪気はなかったのよ。……そうね、しばらくは客室で我慢しなさい。明日には地下室から荷物を運ばせて、部屋も片づけさせるから。いいでしょう?」

今井心晴は母の上辺だけの態度を見て、はっきり悟った。

もう何を言っても無駄だ。

疲れ果てていた。

誘拐されていた一年。ようやく帰ってきてからの裏切り。そして今の言い争い。

そのすべてが、彼女の力をすっかり奪い尽くしていた。

もう争いたくもない。

これ以上、彼らの偽善に付き合う気力もなかった。

固く握りしめていた拳を、ゆっくりとほどく。

そして、何の感情も浮かばない顔のまま、今井心晴は言った。

「……分かった」

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