第3章
メイドに案内され、今井心晴は客室へ通された。
狭い部屋だった。かつて自分が使っていた部屋とは、月とすっぽん。
けれど、もうどうでもよかった。ただ、横になって休める場所がほしい。
ベッドに身を沈め、目を閉じる――それだけで、地下室の悪夢が容赦なく押し寄せる。湿り気。腐った匂い。闇の中で響く足音。
結局、心晴は一睡もできないまま朝を迎えた。
翌朝。鉛みたいに重い身体を引きずって階下へ降りると、食卓にいたのは、あの農夫だけだった。
相変わらずボロい服、鳥の巣みたいに乱れた髪。皿のステーキにかぶりつき、指も口元も脂でべとべと。見ているだけで胸が悪くなるほど、品がない。
「……お父さんとお母さんは?」
心晴が訊くと、農夫は顔を上げ、もごもごと答えた。
「裏庭じゃねえか? このステーキはキッチンで見つけた。なかなかうまいな。都会の連中は贅沢だ」
袖で口元を乱暴に拭い、じろりと睨む。
「で、報酬はいつだ? 俺が命拾いさせてやったんだぞ」
欲深くて粗野。それでも――命の恩人だ。この家の誰より、よほど筋が通っている。
心晴は真っすぐに言った。
「約束は守る。いま手元に現金がないだけ。できるだけ早く用意する」
「踏み倒す気か?」
農夫は眉をひそめ、ぶつぶつと不満をこぼす。
「払わねえなら、ここに居座るぞ。今井家が恩知らずだって、みんなに言いふらしてやる」
心晴が何度も誓うと、農夫はようやく口を閉じた。
――でも、不安しかなかった。
この家は、娘の自分すら大切にしない。助けてくれた農夫にだけ誠実であるはずがない。
食欲はなかった。心晴は席を立ち、裏庭へ向かう。
遠目にも見えた。両親と今井優奈が、テラスのテーブルで朝食を囲み、楽しげに笑い合っている。精緻な皿が並ぶ、三人だけの穏やかな時間。
胸の奥が、じわじわ冷えていく。
心晴は無表情のまま近づき、淡々と言った。
「どうして呼んでくれなかったの?」
三人の顔に、気まずさが走る。
今井洋子が咳払いし、渋々メイドへ言った。
「……椅子を一つ」
椅子が運ばれ、心晴が腰を下ろす。
その瞬間、洋子と優奈が無意識に身を引いた。間合いを取る。まるで心晴が感染症の患者であるかのように。
心晴は何も言わず、ナイフとフォークでサラダを切った。何事もないふりをして。
すると、優奈がねっとりした声で言う。
「心晴、見て。パパとママが歓迎のために、サーモン用意してくれたのよ」
心晴は黙って、皿のサーモンを見た。
サーモンが好きなのは、心晴じゃない。優奈だ。
この朝食は、最初から心晴のためではない。分かっていて言っている。無様な姿を晒させるために。
心晴は静かにフォークでサーモンをひと切れ刺し、優奈へ差し出して微笑んだ。
「優奈、サーモン好きでしょう。これ、あげる」
優奈の顔色がさっと白くなり、びくりと身を引く。瞳に浮かぶのは、拒絶と嫌悪。
洋子と今井茂雄も固まった。怯えたような表情。
――心晴が触れた食べ物など、口にできるはずがない。そう思っているのだ。
滑稽だった。
心晴は笑みを深め、からかうように言った。
「優奈、食べないの? 私が嫌なの?」
優奈の目が一気に赤くなり、母へ縋る。
「ママ……」
洋子が慌てて取り繕う。
「心晴、お姉ちゃんはこのところ胃腸の調子が悪いの。先生に海鮮は止められてるって。あなたが食べなさい」
心晴の視線が、優奈の皿へ落ちる。そこにもサーモンが乗っていた。
心の中で冷笑しつつ、表情は崩さない。今度はフォークを洋子へ向けた。
「じゃあ、ママに」
「い、いらないわ」
洋子は顔を引きつらせ、ぶんぶんと手を振る。
「私、これは好きじゃないの。あなたが食べなさい」
「……もういい!」
茂雄が堪えきれず、バンッとテーブルを叩いた。
「今井心晴! 朝からくだらんことで無理やり騒ぐな! 何が目的だ!」
心晴はフォークを置いた。瞳は死んだみたいに凪いでいる。
「私が無理やり騒いでる? ただ取り分けただけ。それで無理やり? 私たち、家族じゃないの?」
その一言で、茂雄と洋子は言葉を失った。
大変だったのは分かる。だが、感染症があるかもしれない――その思いが、嫌悪となって噴き出す。
「……食欲が失せた。勝手にしろ!」
茂雄は皿を乱暴に押しやり、怒気を纏って立ち去った。
洋子と優奈も続く。疫病神から逃げるように。
取り残された心晴はサラダを口へ押し込み、喉がきゅっと詰まる。堪えきれず、ぽとりと涙が落ちた。
部屋へ戻ると、農夫がメイドと揉めていた。心晴を見るなり、怒りのままに詰め寄ってくる。
「どういうことだ! 今井家のやつ、使用人に俺を追い出させようとしてるぞ! 金はいつだ!」
心晴の胸が沈む。
――両親の差し金に決まっている。農夫が邪魔。でも自分たちの手は汚したくない。
心晴は深く頭を下げた。
「ごめんなさい。巻き込んだ。お礼は私が払う。少しだけ待って」
そう言うと、客室へ駆け戻り、換金できる物を探した。
見つかったのはネックレス一本。古川俊哉が昔、贈ってくれたものだ。1000万には届かない。それでも安物ではない。
心晴はネックレスを農夫へ差し出した。
「これ……だいたい700万くらいの価値はあると思う。残りは必ず補う」
「700万? 1000万って約束だろ」
農夫は不満げに唸る。
「……それしかないの」
心晴は唇を噛み、俯いた。
農夫もさすがに気の毒になったのか、舌打ちして受け取った。
「仕方ねえ。いったんこれで手を打つ。残り300万、忘れんなよ」
心晴は強くうなずいた。
帰り際、農夫は迷ってから、低い声で言った。
「お前の家族、あんまりお前を歓迎してねえな。今朝キッチンで聞いた。お前、感染症かもしれねえから、家の外に移せって……親と姉が話してたぞ」
心晴は言葉を失い、農夫の背中を見送った。
――追い出す? この家が?
呆然としていると、背後から低い声が響いた。
「すみません。こちらは今井家でよろしいですか」
