第4章 同じ穴の狢
今井心晴が振り返ると、正門の逆光の中に、背の高い男が立っていた。
仕立てのいい黒いスーツ。体の芯がぶれない、松のようにまっすぐな立ち姿。
さっきまで心晴に露骨な冷たさを向けていた古川俊哉は、いまや顔いっぱいに媚びた笑みを貼りつけ、ほとんど駆け足で階段を下りた。今井心晴の横を素通りし、その男のもとへまっすぐ向かう。
「叔父さん! どうしてわざわざ、あなたが……!」
声は過剰なほど恭しく、それでいて怯えまで滲んでいる。
叔父さん?
今井心晴はわずかに瞬いた。
以前、俊哉が言っていた。古川家には、海外に拠点を置きながらグループの命運を握る実力者がいる、と。
――古川雅哉。
古川雅哉は軽く頷くと、俊哉の肩越しに視線を滑らせ、淡々と今井心晴を見た。
「心晴さんが戻られたと聞いた。兄貴に頼まれてね。医者を連れてきた。検査をしてもらう」
その言葉に、俊哉の背後にいた今井優奈の瞳がぱっと輝いた。
追い出す口実が欲しかったのだろう。向こうから差し出された格好だ。
優奈はすぐに俊哉の腕へ縋りつき、聞き分けのいい顔で言う。
「俊哉、叔父さまって本当にお優しい。心晴はあんな場所に一年も……きっと体にいろいろあるわ。パパとママにうつったら大変だもの。ちゃんと調べたほうがいいよ」
俊哉もようやく意図を汲んだのか、感謝の色を濃くして古川雅哉を見上げた。
「叔父さん、ありがとうございます。さすがです。心晴は……今の状態だと、正直、心配で……」
そこへ、今井茂雄と今井洋子も物音を聞きつけて駆けてくる。古川雅哉の姿を認めた瞬間、二人の顔が花が咲いたようにほころんだ。先ほどまでの心晴への態度が嘘みたいだ。
「古川社長が直々に……! これは光栄です!」
茂雄は手を擦り合わせ、へつらうように頭を下げる。
「どうぞ中へ! どうぞどうぞ!」
一同は古川雅哉を中心に据え、恭しくリビングへ案内していく。
その輪の外で、今井心晴だけが取り残された。まるで異物。ぽつんと立ったまま、その滑稽な光景を眺め、唇の端を冷たく吊り上げる。
これが、血のつながった家族。
外の人間には卑屈に頭を下げ、死に物狂いで生きて帰った実の娘には、疫病神を見るような目を向ける。
古川雅哉はソファの上座へ腰を下ろし、長い脚を組んだ。空気が一瞬で彼のものになる。
片手を軽く上げると、後ろから救急箱を提げた金縁眼鏡の中年医師が進み出た。
「木村先生だ。この分野では名が通っている」
古川雅哉が簡潔に告げる。
木村は眼鏡を押し上げ、今井心晴を値踏みするように一瞥した。
来る前に俊哉から匂わされている。病気がなくても、病気にしろ――と。
「今井さん。手を」
救急箱を開けながら、投げやりで傲慢な声音。
今井心晴は動かない。冷えた視線で医師を見返した。
「どうしたの、心晴。怖いの?」
優奈が甘ったるい声で煽る。柔らかい言い方なのに、刺す言葉ばかりだ。
「言えない病気でもあるんじゃない? だから検査されたくないとか」
「ほら、早くなさい」
今井洋子が眉をひそめて急かす。
「心晴、ぐずぐずしないで先生に診てもらいなさい」
今井心晴は深く息を吸い、ゆっくり袖をまくった。
露わになった腕。青紫の痣と赤い発疹がびっしり広がり、豪奢なリビングの中でひどく生々しく浮いて見える。
洋子が息を呑み、口元を押さえて数歩も後ずさった。
「……うっ……なにそれ……気持ち悪い……」
木村は近づきもしない。器具も使わない。ちらりと見ただけで、わざとらしく顔をしかめ、大きく一歩退いた。
「こ、これは……重度の壊死性伝染性皮膚炎です!」
声を張り上げ、恐怖を煽り立てる。
「重度の感染症で、空気と接触で広がります! 感染すれば全身が潰瘍化して膿み、治療は困難――!」
その瞬間、リビングがどっとざわついた。
茂雄と洋子は顔面蒼白になり、転げるように距離を取る。
「感染症だと? しかも重度……!」
「ほら見ろ! あの臭い、やっぱりおかしかったんだ!」
茂雄は震える指で心晴を指し、喚いた。
「家族全員を殺す気か!」
優奈は胸を押さえ、俊哉の腕の陰に隠れるように震える。
「心晴……ひどい……自分が病気なのは勝手だけど、どうして戻ってきてパパとママと俊哉にうつそうとするの……?」
俊哉も露骨な嫌悪を隠さず吐き捨てる。
「今井心晴、お前は本当に身勝手だ! そんな汚い病気なら外で死ねよ。なんで戻ってきた!」
千の指が、いっせいに彼女へ向けられた。
それでも今井心晴は、妙なほど静かだった。
袖を下ろし、木村をまっすぐに見据える。
「壊死性伝染性皮膚炎?」
冷えた笑いが喉の奥で鳴る。
「木村先生。その免許、金で買ったんですか」
木村が一瞬、言葉を失う。次いで顔を赤くして怒鳴り返した。
「何を言う! 私は二十年の臨床経験がある!」
「二十年なら答えてください」
今井心晴は一歩ずつ詰めた。体は痩せて弱々しいのに、圧だけが鋭い。
「潜伏期間は。病理所見は。症状は何ですか」
木村の喉が鳴り、視線が泳ぐ。
「そ、それは……当然……」
「答えられないなら、私が教えます」
心晴が遮る。
「この発疹は境界が明瞭で軽い鱗屑がある。長期の湿潤環境で起きる真菌感染――湿疹と体部白癬です。痣は外力による皮下出血」
「壊死性の重い感染症なら、高熱、リンパ節腫脹、悪臭の膿などが出る。あなた、私の体温を測りました? リンパを診ました? 近くで観察すらせず、二メートル離れて確定診断? あなたの目は顕微鏡なんですか」
誘拐される前、今井心晴は医学部の優等生だった。成績は常に首位。
地獄の一年で知識が薄れるどころか、命の際で研ぎ澄まされていた。
「へ、変異株かもしれないだろう!」
木村は必死に言い繕う。
「君に何が分かる! まだ学生じゃないか!」
「変異株なら尚更、採血して公的機関で検査すべきでしょう」
心晴は鼻で笑った。
「目視だけで恐怖を煽るのは医療じゃない。誰の指示ですか。誰の金ですか。生きて戻った被害者を、そこまで追い詰めたいんですか」
木村の顔から血の気が引く。視線が俊哉と優奈へ、ふらりと逃げた。
俊哉の顔色が変わり、焦ったように怒鳴る。
「今井心晴! 黙れ! 木村先生は叔父さんが呼んだ専門家だ。」
「専門家?」
今井心晴は首だけを巡らせ、初めてソファで見物していた古川雅哉を真正面から見た。
古川雅哉もまた、彼女を見返している。
「古川社長」
心晴は、その圧に怯まない。
「これがあなたの『名医』ですか。でたらめを言い、医徳の欠片もない。古川家の人を見る目も、この程度なんですね」
俊哉に似た輪郭が視界に入っただけで、胸の奥に嫌悪が湧いた。
この界隈の金持ちは似た者同士だ。俊哉が屑なら、その叔父がまともなはずがない。そう思わずにはいられなかった。
