第5章 お帰りなさい
リビングは一瞬にして水を打ったような静けさに沈み、空気まで固まったかのようだった。
誰もが息を殺し、怯えた目で今井心晴を見つめる。
――古川雅哉。
ニューヨークのビジネス界がその名だけで身をすくめ、古川爺さんですら一目置く男。その古川雅哉に、今井心晴は大勢の前で食ってかかり、古川家の見る目を嘲ったのだ。
怒りに任せてボディーガードに命じ、彼女を叩き出す。皆がそう確信した、そのとき。
くつくつ、と。低い笑いが、不意に沈黙を裂いた。
古川雅哉は、怒っていなかった。
長い脚でゆっくりと歩み寄り、目の前で立ち止まる。ぼろぼろの身なりの女を、品定めするように見下ろした。
「なるほどな。この一年の地獄でも、心晴さんは擦り切れていない、か」
古川雅哉は横を向き、冷えた視線を汗だくの木村先生へ投げた。
「心晴さんに誤診を指摘された以上、木村先生は自分でケジメをつけろ。医師名簿からも消えろ。二度と医者を名乗るな」
木村先生の膝が崩れ、どさりと床に落ちた。顔色は死人のように青い。
「古川社長……っ、古川社長、どうかお許しを! 私は魔が差しただけで……!」
ボディーガードが即座に動き、木村先生の身体を引きずるようにして外へ連れ出した。
片づけが済むと、古川雅哉は改めて今井心晴を見る。深い黒の瞳に、ほんのわずかな――見逃しそうなほどの称賛が走った。
「腕もある。肝も据わってる」
それだけだ。
古川雅哉は時計に目を落とし、今井家の面々へ淡々と言い放つ。
「感染症じゃないなら、これ以上の用はない。俊哉、行くぞ」
古川俊哉は一瞬だけ目を瞬かせた。おじさんがここまであっさり引くとは思っていなかったのだろう。だが口を挟む度胸などない。慌てて背筋を伸ばす。
「はい、おじさん」
立ち去る直前、古川俊哉は今井心晴を憎々しげに睨みつけた。次の瞬間には、古川雅哉の背へ追従する。
高級車のエンジン音が遠ざかり、今井家の別荘の門が閉じられた。
その直後だった。
ぱぁん、と乾いた音。
今井心晴の頬が横へ弾かれ、口の端に鉄の味が滲む。ゆっくりと顔を戻すと、そこには顔を真っ赤にした父――今井茂雄。
「この親不孝者が! 家ごと潰す気か!」
震える手で鼻先を指され、唾まで飛ぶ勢いで怒鳴り散らされる。
「さっきの男が誰だと思ってる! 古川雅哉だぞ! 今井家なんざ蟻みたいに踏み潰せる! それをお前は、人前で逆らっただと? 気でも狂ったのか!」
「心晴……どうして、あんなに短気なの……」
今井優奈も近寄り、胸を痛めるふりで首を振る。
「木村先生は間違えたけど……みんなの健康を思ってのことかもしれないでしょう? あの場で古川雅哉に恥をかかせて、もし後でお父さんの仕事に嫌がらせされたら、どうするの?」
古川雅哉からの報復。取引を潰される。利益が消える。その想像が今井茂雄の怒りをさらに煽った。
「つくづく疫病神だ! 一年も行方不明で、薄汚れて戻ってきたと思ったら、帰って早々に厄を呼び込む!」
忌々しげに手を払う。蠅を追い払うような仕草。
「消えろ! 客室へ戻れ! 俺の許可なしに一歩も出るな! 数日は頭を冷やして反省しろ! そのあと古川社長のところへ行って、土下座して詫びるんだ!」
「その貧乏くさい臭いと汚い格好も、さっさとどうにかして! 見てるだけで吐き気がするわ!」
今井洋子はハンカチで鼻を押さえ、露骨に顔をしかめた。
今井心晴は、黙ってその「家族」を見渡した。
利益のために目を吊り上げる父。体面のために蔑む母。
彼女は口元の血を拭い、氷のような目で一度だけ全員をなぞると、踵を返した。二階へ。振り向きもしない。
背後で今井茂雄が喚く。
「その態度は何だ! 謝りもせずに行く気か! いい度胸だな!」
今井心晴は耳を貸さなかった。
狭く息苦しい客室に戻ると、鍵をかける。外の騒がしさが、そこでようやく遮断された。
窓際へ歩き、持ち帰った古びたバッグの内側――隠しポケットを探る。指先が黒いの携帯電話に触れた。
地下室から逃げ出すとき、誘拐犯からくすねたものだ。型は古い。だがネットに繋がる。それで十分。
電源を入れ、指が迷いなくキーを叩く。複雑なコマンドを流し込むと、画面が数回ちらつき、真っ黒なインターフェースへ切り替わった。血のように赤い骸骨のロゴだけが浮かぶ。
世界最大級のダークウェブ・フォーラム。
ここにあるのは法律でも道徳でもない。金と取引だけ。トップクラスのハッカー、傭兵、情報屋、表の顔を隠した桁外れの富豪たちが蠢く場所。
そして――誘拐される前の今井心晴は、ここで別の名を持っていた。
K。
ウォール街で名を知られた相場師。トップハッカー。さらに、常識外れの資産を持つ“見えない金持ち”。
医学部でいつも首席の優等生。その裏で、夜の闇から何億という資金の流れを握っていたなど、誰が想像しただろう。
だが一年前の突然の誘拐が、彼女と外界のすべてを断ち切った。
ロードが二秒。
【WELCOME BACK, K】
今井心晴はすぐにアカウントセンターを開き、海外口座を確認する。
表示された数字を見て、鼻で笑った。
資産は85億。
その一方で、実の両親は、たった1000万の報酬すら渋り、命を救った農夫をホームレスでも扱うみたいに見下した。
――笑えるほど、滑稽だ。
彼女は口座画面を閉じ、フォーラムの管理権限へ移った。
次の瞬間、未読メッセージが雪崩れ込む。かつての協力者、依頼人、助けを求める連中――数千。
全部、無視。
今井心晴は依頼掲示板を開き、最上位ランクの緊急懸賞を叩きつけた。
【ターゲット:一年前、Z国H市郊外で発生した誘拐事件の調査】
【条件:犯人の真の身元、黒幕、資金の流れ、ならびに当時の今井家の通話記録と行動履歴を提出】
【報酬:5000万】
このフォーラムでの5000万なら、一国の大統領の醜聞すら買える。たかが誘拐事件の真相など、時間の問題だ。
今井心晴はエンターキーを押した。
投稿完了の表示が出る。
その瞬間、彼女の瞳の奥の殺意は、もはや隠れもしなかった。
待っていろ。
私を傷つけた連中には――倍で払わせる。
