第6章 コウモリを届ける

すべての作業を終えると、今井心晴はフォーラムからログアウトし、閲覧履歴を一つ残らず消した。

立ち上がり、粗末な浴室へ向かう。

鏡に映ったのは、黄ばんだ顔色に、乱れた髪。――自分。

心晴は洗面台の上のハサミを手に取った。

ざくっ、ざくっ。

枯れ草みたいに絡まった長い髪が、束になって床へ落ちていく。

数分後。鏡の中の「誰か」は、もう別人だった。

すっきりとした短髪。つるりとした額と、すらりとした首筋が露わになる。頬のこけ具合は変わらない。それでも、目だけが異様に光っていた。獣じみた、刺すような狠さ。

その短髪のまま部屋を出たところで、廊下で今井優奈と鉢合わせる。

優奈は、心晴がこのタイミングで出てくることも、髪を切っていることも想定していなかったのだろう。

しかも、心晴は醜くなるどころか、研ぎ澄まされた気配が際立ち、優奈の胸に理由のない不安を落とした。

だが、優奈はすぐに平静を取り戻す。手には書類。顔にはまた、見下ろすような得意げな表情。

「なに、心晴。刺激でも受けた? 髪まで切っちゃってさ」

口元を押さえてくすくす笑う。けれど、目は笑っていない。嘲りだけが剥き出しだった。

「でもちょうどいいじゃん。枯れ草みたいな髪、伸ばしてても恥さらしでしょ。切っとけば、外で人を驚かせずに済むし」

心晴は無表情で優奈を見た。道化でも見るみたいに。

「どいて」

「……っ!」

優奈の顔がひきつる。だが次の瞬間、何か思い当たったのか、怒りを無理やり飲み込んだ。

そして手元の書類をひらりと掲げ、心晴の目の前で揺らしてみせる。

「心晴、これが何だか分かる?」

わざとらしく語尾を伸ばし、これみよがしに言う。

「さっき俊哉がね、あんたのせいで私の気分が沈んだら困るからって、わざわざ人に届けさせたの。株式譲渡の書類よ。古川グループ傘下のテクノロジー企業、5%分の株。俊哉いわく、私への誕生日プレゼントで、ついでに“埋め合わせ”なんだって」

言いながら、優奈は心晴の顔に視線を貼り付ける。嫉妬の色を引き出したくてたまらない、といった具合に。

――古川グループの株がどれほどの価値か。知らない者はいない。

5%。配当だけでも、毎年とんでもない額になる。

心晴は、その書類の署名欄にだけ、さらりと目を走らせた。

一瞬、視線が妙に止まる。

次いで、瞳の奥に、極薄い――しかし決定的な冷笑が走った。

その5%が何なのか、心晴は知り尽くしている。

三年前。古川グループはハッカー攻撃を受け、基幹データベースがほぼ機能停止しかけた。時価総額は一夜で数十億が吹き飛んだ。

そこで動いたのがK。たった10分で攻撃元を追跡し、穴を塞ぎ、損失を食い止めただけではない。株価は逆にストップ高まで駆け上がった。

当時、古川爺さんはその“正体不明のハッカー”への礼として、この5%を報酬に差し出した。

だが――Kとは連絡がつかず、その株は古川俊哉名義のまま「恩人のために預かっている」扱いで宙に浮いた。

それを。

古川俊哉という間抜けは、自分の個人資産だと思い込み、今さら優奈に贈り物として渡している?

「なに? 黙って。嫉妬してんの?」

優奈は勝ち誇ったように笑い、さらに言葉を重ねる。

「残念だけど、俊哉が言ってたわ。ある人は身の程が低すぎて、古川家の若奥様の席にも座れないし、こういう富にも手が届かないって。こういうものは、私みたいな人間が持つべきなの」

心晴は、その小物じみた得意顔を見て、ふっと可笑しくなった。

「そう」

口元がわずかに上がる。視線はどこか愉しげで、底が読めない。

「そこまで好きなら、大事に持ってなよ。――その“富”を、ちゃんと受け止められるといいね」

そう言い捨てると、心晴は優奈を無視して脇をすり抜けた。

すれ違いざま、心晴の指がポケットに滑り込み、改造した携帯の画面を見もせずにコードを打ち込む。送信。

――送信完了。

三秒後。海の向こうのあるオフショア・ファンドが、自動プログラムを起動する。

狙いは、古川グループのその5%株の裏にあるテクノロジー支社。徹底的な空売り。

元はといえば、自分が古川家に与えたものだ。

ならば今度は、自分の手で壊してもいい。

その5%は、ほどなくして「紙切れ」になる。

価値がないどころか、巨額の負債すら背負いかねない、呪いの紙切れに。

心晴は階下で水を一杯注ぎ、二階へ戻った。

すると、自室の扉が半開きになっている。

眉をひそめ、押し開けた瞬間――

バサバサッ。

暗い部屋に、背筋が粟立つような羽ばたきが響いた。

見上げれば、黒いコウモリが数匹、カーテンレールに逆さでぶら下がっている。さらに数匹が狭い室内を狂ったようにぶつかり合い、甲高い鳴き声を上げていた。

それだけじゃない。

きちんとしていたはずのシーツには赤い塗料がぶちまけられ、血溜まりみたいにべったり広がっている。枕元には死んだネズミが数匹。

部屋中に、生臭い悪臭がこもっていた。

「きゃあああっ!」

廊下の入口から、使用人のわざとらしい悲鳴が上がる。

「まあ! 心晴様のお部屋にコウモリだなんて! 不吉すぎます! きっと心晴様が厄を持ち帰ったんですわ!」

心晴が振り向くと、案の定。

数人のメイドが曲がり角に身を寄せ、悲鳴の芝居をしながら、少し離れた場所の今井優奈と「やったわね」とでも言うような目配せを交わしていた。

優奈は廊下の奥で腕を組み、見世物を眺める顔。

「やだ、心晴。神様まであんたのこと厄介者だと思ってるのかもね。こんな汚いの呼び寄せるなんて。この部屋に住み続けたら……寿命縮むんじゃない?」

コウモリ。死んだネズミ。

こんな幼稚な嫌がらせ、考えつくのは甘やかされて育ったお嬢様くらいだ。

心晴は散らかった部屋を眺めても、顔色一つ変えなかった。

ネズミとゴキブリだらけの地下室で一年眠った。こんなもの、あそこで「生きた誘拐犯」と相対する恐怖に比べれば、どうということもない。

「そんなに暇があって、私に“贈り物”をしてくれるなら……」

心晴は小さく呟く。

「こっちも、少しくらいお返ししないとね」

一階の庭へ向かった。農夫が車を停めていた場所。

農夫はもういない。だが、飼料を入れていた袋が一つ、置き去りになっている。

それから三十分後。

優奈は自室の豪奢なベッドに寝転び、パックを顔に貼りつけ、機嫌よく鼻歌を歌っていた。

今井心晴というクズを追い詰めて狂わせ、家から叩き出せば――今井家も、古川俊哉も、全部自分のもの。

そのとき。扉が、すうっと細く開いた。

メイドがスープでも持ってきたのだろう。優奈は目を閉じたまま、気だるく言う。

「テーブルに置いといて。出てって」

返事はない。

代わりに聞こえたのは、かさかさ、かさかさ。

小さく、密集した音。無数の足が、硬い床を這うような――。

優奈は眉を寄せ、苛立って目を開けた。

「だから置いて――」

言い終える前に、瞳孔がぎゅっと開き、全身が凍りつく。

入口に置かれた、贈り物用の箱。

その中から、黒色の“潮”が、止めどなく溢れ出していた。

ゴキブリ。

びっしりとしたゴキブリが箱から這い出し、床、絨毯を覆い、ベッドの脚を伝って上へ――。

「ぎゃあああああああああっ!!!」

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