第2章

午前九時半。千鶴は帝王産業本社ビルの回転扉の前に立っていた。

手には一つのファイルフォルダーを抱えている。昨夜、宗谷が家に置き忘れていった契約書の控えだ。

これは彼女が念入りに用意した口実だった。

「奥様、おはようございます」

受付の女性が恭しくお辞儀をする。

千鶴は微笑んで頷き、専用エレベーターへと向かった。

心臓は速鐘を打っていたが、表情は平静を保っている。

エレベーターの扉が開き、三十二階の社長オフィスエリアは、いつもと変わらず静かで上品な空気に満ちていた。

ダークウッドを基調とした内装に、床から天井まである大きな窓の外には東京湾の景色が広がっている。

「千鶴さん?」

凛とした若い女性の声がした。

千鶴が振り返ると、そこには一人の若い女性がいた。

身長は160センチほどだろうか。小柄で可憐な体つきに、肩までのボブカット、そして精緻なメイクが施されている。

彼女は体にフィットした仕立ての良いビジネススーツを纏い、手にはコーヒーカップを載せたトレイを持っていた。

「あなたは?」

千鶴には目の前の女性に見覚えがなかった。

「わたくし、星野美波と申します。宗谷さんの新しい秘書です」

少女の笑みは甘美で、それでいてプロフェッショナルだった。

「宗谷さんにご用でしょうか? ただいま会議室にいらっしゃいますが」

宗谷さん。

「立花社長」でも、「社長」でもなく、「宗谷さん」。

千鶴の指先が、ファイルフォルダーの縁をそっと撫でた。

「構いませんわ。お待ちします」

彼女は穏やかな口調を崩さなかった。

「新しくいらしたの?」

「はい。入社して三ヶ月になります」

美波の瞳に一瞬緊張が走ったが、すぐに自然なものへと戻った。

「宗谷さんにはとてもよくしていただいて、感謝しております」

彼女がその言葉を口にした時、視線が無意識に社長室の方へ向いたのを、千鶴は見逃さなかった。

千鶴はその眼差しをよく知っていた。

なぜなら五年前、彼女もまた同じ眼差しで宗谷を見つめていたからだ。

「美波さん、お仕事大変でしょう?」

千鶴は微笑みながら尋ねた。

「宗谷は時々そそっかしいところがあって、よく忘れ物をするの」

「いえ、そんなことありません。宗谷さんはとても細やかな方です」

美波は反射的に反論し、それから自分の口調が庇いすぎていることに気づいたのか、慌てて付け加えた。

「いえ、その……立花社長は、お仕事にとても真摯でいらっしゃいます」

千鶴の笑みは変わらなかったが、心はすでに半分ほど冷え切っていた。

彼女は美波が給湯室へ向かい、手慣れた様子でイタリア製のコーヒーマシンを操作するのを見ていた。

あのコーヒーマシンを、千鶴は二度しか使ったことがない。宗谷が、自分が淹れたコーヒーが好きで、他人に触られたくないと言っていたからだ。

今、この少女はそれをいとも容易く使いこなしている。

「千鶴?」

宗谷が会議室から出てきて、顔に驚きの表情を浮かべた。彼は早足でこちらへ歩み寄ると、ごく自然に千鶴の肩を抱いた。

「どうしたんだ、急に」

「あなたの書類、忘れていったわ」

千鶴はファイルフォルダーを差し出した。

「ありがとう、ハニー」

宗谷は彼女の額に軽くキスをした。

「美波、この書類を三部コピーしておいてくれ」

「はい、宗谷さん」

美波は書類を受け取り、その指先が何気なく宗谷の手の甲に触れた。

その瞬間、千鶴には全てが見えた。

美波の瞳に宿る思慕、宗谷の顔に浮かぶ自然な態度、そして二人の間に流れる、言葉を必要としない暗黙の了解。

「まだ会議が残ってるんだ」

宗谷は腕時計に目を落とした。

「今夜は早く帰るから、一緒に食事しよう」

「ええ」

千鶴は頷いた。

彼女が背を向けて立ち去る時、視界の端で美波が宗谷のデスクの書類を整理しているのが見えた。その仕草は柔らかく、手慣れていて、まるで幾度となく繰り返してきたかのようだった。

エレベーターの扉が閉じた瞬間、千鶴は目を閉じた。

身長160センチ、小柄な身体、見覚えのある仕草。

全てが、繋がった。


しかし午後五時、宗谷から千鶴へメッセージが届いた。待たなくていい、と。

急な接待が入り、申し訳ない、と。

詫びの印として、彼はエルメスの新作を五つ、彼女の元へ送らせた。どうか機嫌を損ねないでほしい、と。

千鶴はそのメッセージを眺め、何を思うでもなく、ただ親友に電話をかけた。まだ空いているか、明日に延ばす必要はない、今夜食事を続けられる、と。

六時。

千鶴は銀座のフレンチレストランに座っていた。向かいには親友の佐藤真理がいる。

「顔色、良くないわよ」

真理はメニューを置き、心配そうに彼女を見つめた。

「また論文で夜更かししたの?」

「してないわ」

千鶴はかろうじて笑みを浮かべた。

真理は眉をひそめる。

「千鶴、あなた、あの男のために犠牲にしすぎよ。この間、藤原教授からアイスランドでの地質探査に誘われた時も、断ったじゃない」

「彼が私を必要としていたから」

千鶴は小声で言った。

「でも、あなたは何を必要としているの?」

真理の口調は少し激していた。

「あなたはT大最年少の地質学博士なのよ。世界中を歩き回るべき人間が、家で永遠に仕事をしている夫を待っているなんて」

千鶴は答えなかった。

彼女の視線が、ふとレストランの入り口で固まった。

宗谷が入ってきた。

彼の隣には、星野美波がいた。

二人は並んで歩き、宗谷の手は美波の腰にそっと添えられ、窓際の席へと彼女を導いていた。

そこは、千鶴と宗谷がこのレストランで初めてデートした時に座った席だった。

「千鶴?」

真理が彼女の視線を追い、瞬間的に固まった。

「あれって……」

千鶴は何も言わなかった。

美波はとても楽しそうに笑っていて、目は三日月形に細められ、ずっと宗谷の周りをくるくると回っている。宗谷はこれといった反応を示さないが、拒絶もしていない。

それが問題だった。

しかも、かなり大きな。

「行きましょう。あの男、本当にひどすぎるわ。私がきっちり言ってやらないと!」

真理は立ち上がり、その声は怒りで震えていた。

「いいの」

千鶴の声は、奇妙なほどに平坦だった。

彼女は座ったまま、優雅に皿の上のラムチョップを切り分けている。

真理は信じられないといった様子で彼女を見た。

「千鶴、あなた……」

千鶴は顔を上げ、その瞳は恐ろしいほどに冷静だった。

「見ておきたいの。この男が、一体どこまで偽善者なのかを」

宗谷と美波は、まったく彼女たちに気づいていない。

しばらくして。

千鶴はナイフとフォークを置いた。

急に、食欲が失せていた。

「千鶴……」

真理の目には涙が滲んでいた。

「大丈夫……?」

千鶴はナプキンで口元を拭った。その動作はやはり優雅なままだ。

「真理、あなたの言う通りだったわ。私、この結婚のために多くを犠牲にしすぎていた」

彼女は立ち上がり、ハンドバッグを手に取った。

「変わらなくちゃ」

レストランを出る時、千鶴は振り返らなかった。

もし振り返ってしまったら、あの男の元へ駆け寄り、問い詰めてしまうかもしれないとわかっていたからだ。

あなたの言う愛って、こういうことなの?

あなたの言う永遠って、こういうことなの?

だが、彼女はそうしない。

なぜなら彼女は、水嶋千鶴だから。

裏切り者のために、涙を流したりはしない。


夜十一時。千鶴は家に帰り着いた。

がらんとしたマンションには彼女一人しかいない。

彼女はコンピューターを起動し、メールボックスにログインした。

藤原教授からのメールが、静かに受信箱に横たわっている。

『千鶴君、中央アフリカ、チャド湖地域の地下水資源探査プロジェクトで、君の専門知識がどうしても必要なんだ。これは現地の数千万人の生活を変えるチャンスであり、君自身の価値を証明する舞台でもある。考えてみてくれないか』

千鶴の指が、キーボードの上で止まった。

窓の外では、東京タワーの灯りが今も煌めいている。

今日見た全てを思い出す——美波が手慣れた様子で操作するコーヒーマシン、二人が共に食事をする光景。

かつては自分だけのものだった特別な優しさが、今は他の誰かに与えられている。

千鶴は深く息を吸い込み、タイピングを始めた。

『藤原教授、そのプロジェクト、お受けいたします。詳細なスケジュールをお教えください』

メールを送信した後、彼女は椅子の背にもたれかかり、目を閉じた。

五年間の結婚生活は、今日、完全に砕け散った。

だが、彼女は泣かない。

本当の自分は、この狭いマンションにも、偽りの接待にも、自分を大切にしない男にも、決して属してなどいないと知っているからだ。

彼女が属すべきは、広大な大地であり、心から愛する仕事なのだ。

ドアのロックが解除される音がした。

宗谷が帰ってきた。

「千鶴? まだ起きてたのか」

彼の声には疲労と、わずかな後ろめたさが滲んでいた。

千鶴は振り返り、顔に穏やかな笑みを浮かべた。

「ええ、資料を見ていたの。会議はどうだった?」

「まあまあだな。一つプロジェクトが決まった」

宗谷はネクタイを緩めながら言った。

「疲れたよ」

彼は歩み寄り、千鶴を抱きしめようとした。

千鶴は避けなかったが、応えることもしなかった。

ただ静かに立ち尽くし、この男の体温を感じていた。

この偽りの優しさを感じるのは、これが最後になるだろう。

「宗谷」

彼女は不意に口を開いた。

「ん?」

「もし私が、すごく遠い場所へ仕事に行くことになったら、応援してくれる?」

宗谷は一瞬きょとんとし、それから笑って言った。

「もちろん。でも、東京で俺のそばにいるって言ってなかったか?」

千鶴は答えなかった。

彼女はそっと彼を押しやり、寝室へと向かった。

「疲れたから、先に寝るわ」

ベッドに横たわり、千鶴は目を開けたまま天井を見つめていた。

彼女の決心は、もう固まっている。

藤原教授からはすでに返信があり、彼は大喜びで、七日後には中央アフリカへ出発することになっていた。

だから。

彼女は自分に七日間の猶予を与え、全てを整理することに決めた。

そして、ここを去る。この偽善者の男から、この息の詰まる結婚から、離れるのだ。

本当の自分を探しに。

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