第3章
千鶴は書斎に座り、目の前には銀行の取引明細書の束が広げられていた。プリンターがかすかな唸りを上げ、一枚、また一枚と紙を吐き出していく。
彼女の指はキーボードの上を素早く動き、Excelの表の中の数字が絶えず跳ねる。
婚前個人預金:1200万円
婚後共同口座:2億円
不動産時価:6億円
株式・投資信託:10億円
千鶴は手を止め、目元を揉んだ。
五年間の結婚生活とは、これらの冷たい数字に過ぎなかった。
宗谷と結婚した当初、彼が「僕のものは君のもの、君のものも僕のものだ」と固く誓ったのを思い出す。
今となっては、なんと滑稽なことか。
「共有財産は法律に基づき50%。不動産は婚姻後の購入だから、私に分割請求権がある……」
千鶴はノートに計算過程を書き留めていく。
寝室から、宗谷が寝返りを打つ音が聞こえた。
彼女は別のフォルダを開く。中には彼女個人の資産リストがあった。
地質調査設備:80万円
学術論文著作権料:年間約120万円
藤原教授より贈呈された地質ハンマー:プライスレス
それは彼女が大学院を卒業する時、恩師が贈ってくれたプレゼントだった。柄には一行の文字が刻まれている。
「未知を探求し、歩みを止めるなかれ」
彼女は机の上のそのハンマーをそっと撫で、目頭が少し熱くなった。
「五年も経つと、この言葉の意味をほとんど忘れてしまっていたわ」
窓の外では、空が次第に白み始めている。
千鶴は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。東京の街が目覚め始め、早起きのサラリーマンたちが足早に通り過ぎていく。
ふと、昨夜レストランで見た光景が脳裏をよぎる――宗谷の手が美波の腰に置かれた、あの瞬間。
「そろそろ、けじめをつける時ね」
千鶴は窓の外の街に向かって静かに呟いた。
彼女は机の前に向き直り、ノートの最後のページに書き記す。
一日目タスクリスト:
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✓ 財務状況の整理
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□ 離婚弁護士への相談
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□ 引っ越し業者の手配
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□ 離婚協議書草案の準備
千鶴はノートを閉じ、すべての書類を片付けた。
彼女はキッチンへ入り、朝食の準備を始める。
目玉焼きの香ばしい匂いが広がり、トースターが「チン」と音を立てた。千鶴は手際よく食器を並べ、オレンジジュースを注ぐ。
不意にスマホが震えた。
千鶴が手に取ると、画面には見知らぬ番号が表示されている。
彼女は眉をひそめ、メッセージを開いた。
「立花夫人、昨夜は遅くまでご一緒でした♡」
その下には、何枚もの写真が添付されていた。
写真の中では、宗谷と美波が高級ホテルの玄関口に立っていた。宗谷の手は美波の肩に置かれ、二人はとても親密そうに笑っている。
他にも、悪意のあるアングルで撮られた親密な写真がいくつかあった。
明らかに、わざと撮られたものだ。
千鶴はその写真を三秒間見つめた。
そして、フンと鼻で笑った。
「本当に気の短い子ね。わざわざこんな証拠を送ってくるなんて、私を喜ばせるためかしら?」
彼女は無表情にスマホをテーブルに戻した。
「千鶴?」
宗谷の声が寝室から聞こえる。
「おはよう。もうすぐ朝食できるわよ」
宗谷はあくびをしながら出てきた。髪は乱れ、まだパジャマ姿だ。
「早いな、起きるの」
彼は食卓の椅子に腰を下ろした。
「昨日はよく眠れたか?」
「まあまあよ」
千鶴は目玉焼きとトーストを彼の前に置いた。
「ああ、疲れたよ」
宗谷はトーストを一口かじった。
「でも、大きなプロジェクトがまとまったから、今年の会社の業績は問題ないはずだ」
千鶴はコーヒーを淹れて彼に渡した。
「あの新しい秘書の、美波さんって、仕事はできるの?」
宗谷は一瞬きょとんとし、それから自然に答えた。
「ああ、すごくいいよ。仕事熱心だし、手がかからなくて助かってる」
「優秀な社員みたいね」
千鶴は微笑んで言った。
その口調は恐ろしいほどに穏やかだった。
宗谷は何も異常を察することなく、朝食を食べ続ける。
「そうだ、今夜も残業になるかもしれないから、夕飯は待たなくていいよ」
「わかったわ」
千鶴は頷いた。
「体に気をつけてね」
宗谷は立ち上がり、彼女の額にキスをした。
「千鶴、愛してるよ」
千鶴は微笑みを保ったままだった。
宗谷が出て行き、ドアが閉まったその瞬間、彼女の顔から笑みがすっと消えた。
彼女はスマホを手に取り、「東京 最強 離婚弁護士」と検索した。
午後二時、千鶴は銀座にあるプライベートバンクのVIPルームに足を踏み入れた。
「水嶋様、こんにちは」
資産アドバイザーは四十代ほどのキャリアウーマンで、プロフェッショナルで穏やかな笑みを浮かべていた。
「資産計画についてご相談したいのですが」
千鶴は腰を下ろし、鞄から書類を取り出した。
「もし、仮にですが、財産分与を行う場合……」
資産アドバイザーは書類にちらりと目をやり、すぐに何かを察した。
「承知いたしました」
彼女の口調はより慎重なものに変わった。
「日本の婚姻法によりますと、婚姻後の共有財産は原則として折半となります。しかし、企業株式が関わってきますと、少々複雑になりますが……」
千鶴は真剣に耳を傾け、時折ノートに要点を書き留めていく。
一時間後、彼女は銀行を出た。手には詳細な資産分割プランが握られている。
東京の午後の陽射しは眩しかった。
千鶴は銀座の路上に立ち、行き交う人々を眺める。
五年前、宗谷に連れられてここで婚約指輪を買ったことを思い出した。あの頃、二人は宝石店で本当に楽しそうに笑っていた。
「あの頃の私、本当に世間知らずだったわね」
千鶴は呟いた。
彼女はタクシーを一台止め、行き先を告げた。
「法律事務所までお願いします」
夜七時、千鶴は家に帰った。
がらんとしたマンションには彼女一人しかいない。
ハイヒールを脱ぎ捨て、素足で書斎へ向かい、ノートを開く。
今日の収穫は大きかった。
一日目完了:
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✓ 財務状況の把握完了
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✓ 法律事務所への相談完了
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✓ 離婚協議書の骨子確定
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✓ 財産移転の合法的手段の把握
千鶴は「残り六日」という文字の下に一本の線を引いた。
スマホが鳴った。
宗谷からだ。
「千鶴、今夜の付き合いはかなり遅くなりそうだ。先に寝ててくれ」
「わかったわ。体に気をつけてね」
千鶴の声は、まるで何もなかったかのように優しかった。
「うん、愛してる」
「……私もよ」
電話を切った後、千鶴はスマホの画面を見つめ、口の端に冷たい笑みを浮かべた。
かつての美しい思い出はすべて、六日後には完全に葬り去られるのだ。
千鶴は部屋に戻り、クローゼットの整理を始めた。
宗谷から贈られた高級品はすべて処分するつもりだった。
エルメスのバッグ、シャネルの服、カルティエの宝飾品――すべて売り払うのだ。
そんな偽りの証は、彼女には必要ない。
彼女が必要なのは、自由だった。
