第1章
鈴鹿柚葉がドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは——自分の荷物が全部、リビングに山みたいに積まれている光景だった。
「お姉ちゃん、どうして戻ってきたの? てっきり今日、空気読んで出ていったものかと」
鈴鹿星乃は腕を組み、鈴鹿柚葉を見下ろす。
「まあ戻ってきてもいいけど。だってここ、もうお姉ちゃんの家じゃないし。私が何しようが、あなたには関係ないでしょ」
そこへ新沢逸也が現れ、鈴鹿星乃の肩を抱き寄せた。
「出ていく前に渡辺さんに土下座でもしてけよ? 十八年も育ててくれたんだ。育て間違いではあったけど、金だってかかってるだろ」
鈴鹿星乃は小香風のワンピースを身にまとい、新沢逸也の胸に甘えるように寄り添う。
「そんな言い方しないで、逸也兄ちゃん。お姉ちゃんだよ?」
その高級オーダーのドレスの色——鈴鹿柚葉が以前、大きなショーで長いこと見つめていたのに、鈴鹿家から「あなたには似合わない」と言われたやつだ。
鈴鹿柚葉は鼻で笑った。過去の自分の立場をかぶりながら、センスまで稚拙に真似してくる女。
床に散らばった身分証を拾い上げようとした、そのとき。鈴鹿星乃が前に立ちふさがる。
「……何が可笑しいの?」
何もかも真似していたくせに、今さらこちらの服を見下すのか。鈴鹿柚葉は眉を上げ、淡々と言い返した。
「そりゃ笑うでしょ。哀れで、猿真似ばっか」
鈴鹿星乃の顔色がさっと白くなる。
「鈴鹿柚葉、私があなたの真似? 鈴鹿家のお嬢様が、あなたなんかの服装を真似する必要ある?」
「私はあなたの荷物を確認してるの。口では鈴鹿家なんていらないって言いながら、裏で何か盗ってないか見てるだけ!」
鈴鹿柚葉は冷ややかに見返す。
「私がそんな物、欲しがると思ってるの?」
そして小さく笑った。
「まあ、盗み癖のある人間は、他人も泥棒に見えるか」
鈴鹿星乃は真っ赤になり、涙目で新沢逸也の胸に潜り込んだ。
「逸也兄ちゃん、見て! お姉ちゃん、私のこと見下してる……いじめるの!」
新沢逸也は鈴鹿星乃の腕を軽く叩いて宥める。
「鈴鹿家の本物のお嬢様はお前だ。新沢家と縁組するのもお前だけ。あいつに腹立てるなよ。どうせこれから先、高級オーダーとも無縁になるんだから」
「二日後の誕生日には、デザイナーのエコーのドレス、取ってやった」
「エコー?」
鈴鹿星乃の瞳がぱっと輝く。だがすぐに上品ぶったように唇を結んだ。
「最近、予約が本当に取れないって聞くわ。お客にもすごく厳しいとか……逸也兄ちゃん、私のために無理してお願いしたの? お金もかかったでしょ?」
新沢逸也は抱き寄せたまま微笑む。
「まあ少し手間はあったけどな。星乃ちゃん、お前にはその価値がある」
そして鈴鹿柚葉に向ける視線は、傲慢と誇示で満ちていた。
「どっかの意地っ張りとは違う。あいつはもう、一生こういうドレスとは縁がない」
「お前があいつより上に行くんだ。あいつが持ってた『目』だって、人の人生を横取りしてただけだろ。全部正しい場所に戻れば、星乃ちゃんのほうがずっとふさわしい」
鈴鹿星乃は満足げに頬を寄せる。
「やっぱり逸也兄ちゃんが一番」
鈴鹿柚葉は腕を組み、無表情で二人を眺めた。
「エコー? 新沢逸也、本当に取れると思ってるの?」
新沢逸也が眉をつり上げる。
「なんだ、信じないのか?」
鈴鹿柚葉は肩をすくめ、何も言わなかった。ついさっき、スタジオで見たオーダー——あれが新沢逸也のものだと、今になってようやく繋がった。
よかった。即、断っておいて。
「逸也兄ちゃん、お姉ちゃんはもう出ていくの」
鈴鹿星乃は彼の手を握り、殊勝な顔で言う。
「だから不安で、逸也兄ちゃんを疑っちゃっただけ。私は信じてる」
新沢逸也は鈴鹿星乃の頬を両手で包む。
「その日、お前が会場で一番輝く姫さまだ」
寄り添い、甘い空気を纏う二人。
鈴鹿柚葉はふと、かつて新沢逸也がしつこく自分にまとわりつき、何度拒んでも犬みたいに尻尾を振ってきたことを思い出す。
冷笑が漏れた。
「ほんと、お似合い。二人とも」
鈴鹿星乃はにっこり。
「当然よ。婚約があるのは、私たちだもの」
鈴鹿柚葉はちらりと見て言う。
「まあ、世間知らずはゴミを宝物扱いするってことね」
鈴鹿星乃の表情が一瞬で歪む。
「鈴鹿柚葉!」
「何様のつもり? 私の場所を何年も占領して、私の人生を奪っておいて、その口でそんなこと言えるの?」
鈴鹿柚葉は口元に薄い笑みを浮かべ、眉を上げた。
「まるで私が入れ替えたみたいな言い方。忘れた? 私が鈴鹿家に来たときだって、赤ちゃんだった」
新沢逸也が鈴鹿星乃を抱きしめ、憤ったように言う。
「鈴鹿柚葉、前から生意気だとは思ってたが……星乃ちゃんにどういう口の利き方してる?」
鈴鹿柚葉は視線すら向けない。
「あなたと話すの、吐き気がする。どいて」
「今日、星乃ちゃんに謝れ」
新沢逸也の顔が沈む。
鈴鹿柚葉は白目を剥くように目を上げた。
「誰があんたに口出ししていいって言った? 鈴鹿家の家事に、あんたが首突っ込む資格あるの?」
「まだ結婚もしてないのに、もう鈴鹿家の人間気取り?」
鈴鹿星乃は鼻声で言った。
「彼は私の婚約者よ」
鈴鹿柚葉は新沢逸也を一瞥する。こいつが骨の髄までどういう男か、自分が一番よく知っている。女癖が悪く、節度もない、絵に描いたような腐った男。
新沢家の実権は新沢の老当主にあり、彼が本当に推しているのは新沢逸也ではない。新沢逸也は新沢家の名を借りて、良縁を漁っているだけだ。
父の鈴鹿征江は「高枝に掴まった」と勘違いし、双方の思惑が一致して話はまとまった。
だからこそ鈴鹿柚葉は、結婚を嫌がったのだ。
今さら蠅と豆がぴたりとくっついたのなら、心の中で祝ってやるしかない。
鈴鹿柚葉が黙っているのを、鈴鹿星乃は言い返せなくなったのだと勘違いした。そこへ渡辺花子がやって来て、鈴鹿星乃は飛びつく。
「ママ! お姉ちゃん、私が逸也兄ちゃんとの婚約を取ったって怒ってるの!」
渡辺花子は娘を抱き、頭を撫でる。
「いい子いい子。泣かないの。あの子が怒ったところで何になるの?」
「逸也はあなたと結婚するのよ」
数言なだめてから、渡辺花子は鈴鹿柚葉へ顔を上げた。途端に表情が冷え切る。
「鈴鹿柚葉、あなたは鈴鹿家に、ちゃんと頭を下げるべきよ。あなたの実の両親がどういう人間か、知ってる?」
「スラムで食べるものにも困ってる底辺。母親は重病、兄は障害持ち、父親だけがまとも……その父親もこの前怪我をした」
彼女は冷笑した。
「長年の情で、あなたを置いてあげようと思ったのよ。苦労させたくなかったから。でも——」
「あなたは星乃ちゃんに逆らってばかり、いじめてばかり!」
「やっぱりね。親が親なら子も子。あんなに手塩にかけて育てたのに、結局治らなかった」
「あなたはスラムに帰るべきなの」
一か月前、鈴鹿家の本当の娘である鈴鹿星乃が現れ、鈴鹿家は鈴鹿柚葉が実子ではないと知った。
その一か月で、鈴鹿柚葉は鈴鹿家の醜さを嫌というほど見せつけられた。
かつて優しかった母は毒を吐き、可愛がってくれた父は冷たい目を向ける。鈴鹿星乃が泣いて甘えれば、誰も彼女の弁解など聞かず、鈴鹿柚葉に謝罪を強要した。
鈴鹿家に娘は一人でいい。自分が争う意味はない。
鈴鹿柚葉はスーツケースに両手を置き、渡辺花子の芝居がかった顔を静かに見つめ、容赦なく刺した。
「本気で、私を引き留めたかったの?」
見慣れたはずの顔が、ひどくよそよそしく見える。
ふと——当時のことを、本当に何も知らないはずがあるのだろうか。
……いや、今は考える時じゃない。
