第2章
「その台詞、自分で言ってて信じられるの? 渡辺さん。理解って、片方だけが求めるものじゃないでしょ。私もまさか――十数年、優しくて穏やかな母だと思っていた人が、善悪の区別もつかない人だなんてね」
渡辺花子は、鈴鹿柚葉がこんな言い方をするとは思っていなかったのだろう。かっと顔色を失い、指を突きつけたまま息が詰まる。
「あなた……!」
鈴鹿柚葉は表情ひとつ変えない。
これまで、いちばん大事だと思ってきた人たちを、ただ静かに見つめていた。
「言うべきことは言いました。渡辺さん、長いあいだお世話になりました。では、失礼します」
そう告げると、彼女は荷物を手に取って、そのまま出ていこうとする。
そこへ執事が入ってきた。鈴鹿星乃に恭しく一礼する。
「柚葉さんのご家族が到着しております」
鈴鹿星乃は鼻で笑った。
「早く。見せて」
執事がタブレットを開く。画面には、中年の男が車で鈴鹿家の門をゆっくりくぐっていく様子が映っていた。
鈴鹿星乃が身を乗り出し、嘲る。
「お姉ちゃん、あれが家族? わざわざ車まで用意して、たいしたものじゃない」
「でも、ボロい。エンブレムすら付いてないし」
隣の新沢逸也も堪えきれないように、口元を手で押さえてくすくす笑った。
渡辺花子はようやく呼吸を整えると、冷ややかに言い放つ。
「鈴鹿柚葉、口だけは一丁前ね。鈴鹿家を出て、後ろ盾もない実の親に頼って、今の体面が保てると思ってるの?」
「今ここで星乃ちゃんに跪いて謝りなさい。そしたら追い出すのを撤回してあげてもいい。鈴鹿家で下働きでもしてなさいよ。スラム街で朽ちるよりはマシでしょう」
けれど鈴鹿柚葉は、誰の顔も見なかった。タブレットの映像だけをまっすぐ見つめたまま、淡々と言う。
「渡辺さん。本当に、私に謝ってほしいんですか?」
「それとも、犬みたいに土下座して、あなたたちに縋る姿が見たいだけ?」
渡辺花子の顔が歪む。
「な、何を……私たちは親切で……!」
「その親切、しまってください。いりません」
鈴鹿柚葉は薄く笑った。
どんなに貧しくても、家族のほうがいい。ここにいる金持ちの腐った連中より、ずっと。
鈴鹿星乃が冷たく鼻を鳴らし、執事に命じる。
「こんなの中に入れないで。庭を汚されたら嫌だもの」
執事は恭しく頷いた。
「結構です」
鈴鹿柚葉が声を落とす。
「私が迎えに行きます」
そう言い捨ててドアを開け、スーツケースを引きずりながら外へ出た。
「鈴鹿柚葉!」
背後から鈴鹿星乃の声が追いかける。
「最後のチャンスよ! 戻りたいなら、今すぐ謝りなさい!」
「この屋敷を出たら、二度と戻れない!」
鈴鹿柚葉は振り返らない。声だけが、さらりと落ちる。
「それが望み」
鈴鹿星乃は地団駄を踏んだ。
「後悔する日が来るから!」
怒声を背に、鈴鹿柚葉は花の咲き乱れる庭を抜け、門の前で車内に座る中年男を見つけた。
呼びかけようと口を開いた、その瞬間――男が慌てて降りてきて、深々と頭を下げる。
「お嬢様! 遅くなりまして、誠に申し訳ございません!」
……お嬢様?
鈴鹿柚葉は、その呼び方に固まった。
「お嬢様、私は専属の運転手でございます。本日は旦那様の命令で、お迎えに上がりました」
男はさらに続ける。
「旦那様から鈴鹿家へお渡しする書類もお預かりしております。お嬢様を養育してくださった謝礼として……ですが、先方が中へ入れるなと」
鈴鹿柚葉の頭の中は霧だらけだった。書類? 謝礼? お嬢様? 専属?
どう考えても、鈴鹿家が言っていた話と噛み合わない。
彼女は首を横に振った。
「謝礼なんていりません。あの人たち、私を厄介者扱いして追い出したかっただけです」
運転手は一瞬ためらい、低く言う。
「……鈴鹿家が、お嬢様を粗末に扱った件は旦那様へ報告いたします。では、ご帰宅なさいますか?」
「ご家族の皆様、すでにお屋敷で準備を整え、盛大な歓迎の席を用意してお待ちです」
歓迎?
病気で動けないんじゃ――。
疑問を飲み込み、鈴鹿柚葉は車へ向かった。
近づいて、ようやく気づく。
エンブレムがない車なんかじゃない。先月、複数のメーカーが共同発表した、F1レベルの限定スーパーカーだ。製造コストは億単位。購入資格も厳しく、宣伝すら慎重に行われる代物。
レースに興味がなければ、知らなくても無理はない。
鈴鹿星乃が見抜けなかったのも当然だ。
運転手は鈴鹿柚葉の瞳のきらめきを見て、ふっと笑う。
「旦那様が、お嬢様はレースがお好きだと聞きまして。贈り物としてご用意された車でございます」
鈴鹿柚葉は耳を疑った。
「……私に?」
運転手が運転席のドアを開ける。
「試してみますか」
鈴鹿家では「粗野で品がない」と言われ続け、封じられてきた趣味。
鈴鹿柚葉は迷いながら座り、キーを回す。
ブォン……!
腹の底に響く咆哮。耳が震え、口角が勝手に上がった。
屋敷を出たあと、街道を疾走する。
運転手が目を見開く。
「お嬢様、お上手だ。才能があります。私は元F2ドライバーですが、見誤りません」
驚いて言葉を返そうとした、そのとき。
バックミラーに黒い車列が映った。ぴたりと張りつき、どれだけ振っても離れない。
鈴鹿柚葉の声がわずかに硬くなる。
「尾けられてる」
運転手はミラーを一瞥し、軽く笑った。
「違いますよ、お嬢様。誤解です」
指示に従い路肩に停めると、後続の黒い車も一斉に停車した。
ドアが揃って開き、黒スーツにサングラスの屈強な男たちがずらりと降りてくる。
彼らは車の両側に整列し、腹の底から声を揃えた。
「お嬢様、おはようございます!」
鈴鹿柚葉は呆然とした。
豪車、元レーサーの専属運転手、そして護衛の一団。
自分の家は――いったい、何者なのだ。
運転手が笑みを深め、恭しく手を差し出す。
「いかがでしょう。お嬢様、お帰りになりましょうか」
